彷徨っているときに見つけたビル。たぶんアパート。
中央の階段部分にはめこまれた、大小さまざまなガラス窓のデザインがかわいい。

 その後、幸運にも安い床屋を見つけて散髪をすませた私は、目的を達成したのでそろそろニールに帰ろうと思い、市電が走る大通 りへ引き換えそうとした。だが地図も持たず、かといって来た道を覚える気もなく適当にふらふら歩いてきた私が、まっすぐ大通 りに戻れる訳がない。あてどなくさまよい歩いているうちに、小さな商店が建ち並ぶ通 りに出た。どの店のショーウィンドウも、WM用にディスプレイされている。とはいえ、プロのディスプレイデザイナーがデザインしたであろうケルン中心街のショーウィンドウとは違い、手作り感覚あふれるディスプレイが多かった。たとえば書店のショーウィンドウでは、サッカー関連の書籍の他に、使い古されたサッカーボールや、おもちゃのゴールポストを飾っていた。「WM06」というポスターも、マジックの手書きである。このように、素人が精一杯のアイデアを凝らしたディスプレイが多いのは小さな町の商店ならではで、見ていて実に微笑ましく、私は迷子になっていることも忘れてそれらのウィンドウウォッチングを楽しんだ。こんな小さな町でも―――いやこんな小さな町だからこそ、人々がWMを心待ちにしていることが、それらの手作りディスプレイから感じられた。カフェやバーでは、店頭に「WMライブあり」と書かれた看板を出している店も多かった。WMが始まれば、それらの店ではテレビやスクリーンで試合を観戦しながら、多いに飲んで騒いで楽しむのだろう。

WM用にディスプレイされた、書店のショーウィンドウ。
年季の入ったサッカーボールがいい味を出している。
その隣にあるバラックが表紙の本は、子ども向けのサッカートレーニング本。一応、バラック監修で、「君もミヒャエル・バラックになれる」というキャッチコピーがついていた。


チョコレートショップのショーウィンドウ。チョコにサッカーボールと「WM」の文字をコーティングしただけで、あんまり凝ったことはしていないのがいかにもドイツらしい。 見た目より味で勝負なのだろう。

 私はこの町で本を買った。ドイツには、飲食類とともに、新聞・雑誌を販売している店が多い。それらの店は、たいてい表に「Bild」という看板を表に掲げている。Bildはドイツ最大発行部数を誇る大衆紙で、その看板は、「Bildはもちろん、他にも新聞売ってますよ」という宣伝なのだろう。
 私が雑誌を買った店も、そんな店のひとつだった。店頭の雑誌スタンドに、バラックが表紙の雑誌を見つけ、手に取ってみると、一冊丸ごとドイツ代表選手たちのグラビア本だった。これなら、ドイツ語が読めなくても楽しめる。何より、まるでファッションモデルばりに表情やポーズを決めている選手たちが面 白く、彼らがドイツではアイドルスター並の扱いを受けていることを感じさせた。
 惜しむらくは、ずっと店頭で太陽にさらされていたらしく、表紙が日焼けしてかなり痛んでいた。私は迷ったが、だがここで買っておかないと、もう他の本屋には置いてないかもしれない。私はその本を持って店内に入り、レジに差しだした。すると店員のおじさんは、その本が痛んでいるのを見て、すぐに店内の本棚から同じ本を探してくれた。

この町で購入した、ドイツ代表選手たちのグラビア本。選手たちの遠征用スーツを提供している「Strenesse」というアパレルメーカーとの提携本らしい。内容の一部をこちらに掲載。
  息のあったどつき漫才を披露するポルディ&シュヴァイニ


大木が気持ち良さそうな木陰をつくっている公園を発見。さっそく行ってみよう。

 

 散髪もし、本も買えて、すっかりいい気分で家路へと向かう私だが、相変わらずいっこうに市電の駅には辿りつけない。どうやら本格的に道に迷ったらしい。私は駅に戻るのは諦めて、とりあえずケルン市街を目指して歩いた。といっても、カンだけが頼りだが。幸い、夜の7時半をすぎているのにまだ明るい。
 そうこうしているうちに、木々がざわめく公園をみつけた。迷子の自覚がない私は、ますます道に迷うであろうことにも躊躇せず、吸い寄せられるようにその公園へと歩いていった。

 すると急に、視界が開けた。目の前に湖が広がっている。湖の周囲は芝生になっており、地元の若者たちが思い思いのスタイルでくつろいでいた。芝生に寝転がって読書をしたり、ベンチで肩を抱き合ったり。湖のほとりをランニングしている人もいた。きっと犬の散歩途中に立ち寄ったのだろう、犬と一緒に芝生に座り、湖を眺めている人の姿も目立った。かと思えば、犬の綱を離して、他の犬とじゃれあうのをのんびり眺めている飼い主もいる。ドイツの犬は躾けが行き届いているため、飼い主の目の届く範囲なら、勝手に遊ばせておいても平気らしい。さすがドイツと思いながら見ていたら、突然一頭の大型犬が、自分より一回り以上小さい小型犬にサカって、その犬の尻を追いまわし始めた。すぐに小型犬の飼い主が飛んできて、その大型犬を追い払いつつ、自分の犬を抱き上げて救い出す。いくらドイツの犬が躾けられているとはいえ、サカリには勝てないらしい。私はなんとなく笑ってしまった。

上 ジョギングする人、読書する人、ベンチで睦みあうカップル…。夕暮れ(実際には8時過ぎだが)の湖は、思い思いの形でくつろぐ人々で賑わっていた。



左 周囲に人がいてもまったく動じず、マイペースに草をついばむ白鳥親子。

 芝生に座り、歩き疲れた足を休める。地元民の憩いのスポットを偶然、見つけられて嬉しかった。迷子になった甲斐があったというものだ。ここだけは、ワールドカップ開幕を間近に控えた喧騒とは全く無縁だった。
 さらにここは、地元民だけでなく、白鳥にとっても憩いのスポットらしい。近くの芝生で白鳥の親子が羽を休めつつ、おいしそうに草をついばんでいるのが見えた。もちろん野生である。こんな間近で野生の白鳥を見たのは、北海道にいた頃、ウトナイ湖で越冬中の白鳥の群れと遭遇して以来だ。
 ウトナイ湖では売店で白鳥の餌を販売していたが、ここではもちろんそんなものは売っていない。周りのドイツ人たちも、ときおり微笑ましそうに白鳥を眺めるだけで、写 真を撮ったりする人は誰もいない。彼らにとっては、別に珍しいことではないのだろう 。
 だが偶然、白鳥親子と出会えたことに感動した私は、そうっと彼らに近づくと写 真を撮りまくった。地元民しかいない憩いのスポットで観光客丸出しの真似をするのはやめようと、それまでカメラを封印していたのに。白鳥、とりわけヒナたちの可愛い仕草を間近で見せられては、そんな自制心もふっとんでしまった。
 幸い、後から散歩にやってきた老夫婦も、白鳥親子を見ると目を細めてカメラのレンズを向けていた。余談だが、ドイツでは腕を組んで歩いている仲の良さそうな老夫婦をよく見かける。恥ずかしがるそぶりなどちっともないのは、やはりお国柄なのだろうか。

 ひとしきり草を食べ終わったヒナたちは、草の上に横になって、足を伸ばしてリラックスしている。移動するときも、いちいち立ち上るのが面 倒なのか、足を伸ばしたままぺたんぺたんと体ごと飛び跳ねるようにして移動するのが面 白い。私は自分が迷子であることをすっかり忘れて、飽きずに彼らの生態を眺めていた。そうこうしているうちに、ようやく太陽が西に傾きはじめ、湖面 に映る光が赤みを帯びてきらきらと輝きだした。
 ふと時計を見ると、もう8時をとっくに過ぎている。そろそろ帰らなと立ち上ったとき、私はようやく自分が迷子であることを思いだした。だが幸運なことに、公園を出ると、すぐ前にあの大通 りが走っていたのだ。市電もちゃんと走っており、少し歩くと駅に辿り着いた。そこは、私がこの町に来るときに降りた駅のふたつ手前だった。迷っているうちに、どうやら二駅分歩いていたらしい。
 こうして私は無事、ニールの家に辿り着いた。半日近くさまよい歩いたせいで足はくたくたに疲れていたが、それを補って余りある、素敵な思い出を胸にためこむことができた。結果 的にちゃんと駅にも戻れたし。ったく、いつもこんな風だから、いつまでたっても迷子癖が抜けないのだ。

リラックスしているように見えて、親鳥はつねに周囲を観察し、ヒナたちを守っていた。
一度、「ぐはーーーっ」という鳴き声をあげ、周囲の人間を威嚇したことがあった。さすが野生の白鳥である。


足をだらーんと伸ばしてリラックスしているのが分かるだろうか。この格好のまま、ぴょこんぴょこんと跳ねるように移動していくのだ。