城山展望台から、蒼くけぶる桜島を望む

城山を降りると、ふもとには西郷の巨大な銅像がそびえていた。陸軍大将の制服姿で、城山を背景に仁王立ちしている。東京・上野公園にある、犬を連れた庶民的な西郷像とは違い、表情も姿勢も、実に堂々たる威厳に満ちている。像の高さは台座ともに約8メートルで、人物像としては日本最大級。西郷の人物の大きさ・魅力は、実際に会った人でないと分からないとよく言われるが、なるほど、この像の巨大さ、堂々たる姿が、そのまま鹿児島人にとっての「西郷どん」のイメージなのだろう。

 西郷の死は、また大久保の命運をも決めることになる。西郷の死から一年後の明治11年5月14日、馬車で出勤中の大久保は、待ち伏せていた島田一郎ら6人の刺客によって紀尾井坂で暗殺された。享年49歳。
 石川県の士族島田一郎は、士族弾圧の張本人であり、西郷を死に追いやった大久保を殺すしかないと思ったという。武士出身でありながら武士という制度をなくし、その結果 、武士に恨まれて殺されたのだ。たとえ「盟友・西郷を死に追いやった冷血漢」と罵られようと、国の未来が輝かしくあればそれで構わないと、かけがえのない友情を絶ち切ってまで近代改革を推し進めた大久保。西郷のような大衆的人気は得られず、小説やドラマの主役として描かれることも無いけれど、彼もまた、もうひとりのラストサムライだった、と思う。

※御堂筋新聞2004年2月号・4月号に掲載されたものを再構成しました。
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城山のふもとにそびえ立つ
西郷隆盛像

 明治10年2月15日、西郷率いる薩摩軍は熊本目指して出陣。出陣の趣旨は、「政府に尋ねたき儀、これあり」のみ。長々とした政府批判の声はなかった。
 熊本へと進軍した薩摩軍は、熊本城の攻防をかけて、今も語り継がれる「田原坂」の激戦へ突入。二週間にも及ぶ死闘の後、敗れた薩摩軍は宮崎、大分へと北上するが、ここでも政府軍に敗れ、鹿児島へと敗走する。そして明治10年9月24日、追いつめられた西郷たち首脳陣が城山で自刃して西南戦争は終わった。

 夕方、その城山に登ってみた。市街中央部にある標高107m の小高い山で、木陰の遊歩道を登って展望台につくと、薄青くけぶる桜島と、鹿児島市外が一望できた。もっとこう、夕日に赤く染まる桜島を期待していた私だが、雲がぶ厚くて夕焼けは拝めない。でもこれはこれできれいだと思った。「日に七度色を変える」といわれる桜島は、その時々で、その美しい姿を惜しみなくさらし、鹿児島の歴史を見守ってきたのだろう。
展望台には、「敬天愛人」の文字と共に西郷の肖像画も飾られており、すぐ近くには最後の五日間を過ごしたと言われる「西郷洞窟」もある。

 なぜ、自らが苦労して作り上げた明治政府に、西郷は反旗を翻したのか。次第に暗闇に包まれてゆく桜島を眺めながら、ぼうっとそんな事を考えてみた。西郷が不満士族の首領として政府に戦いを挑んだ理由は、今も謎に包まれている。 一説では、西郷は最初からこの戦いに勝つつもりは無かったという。ただ、改革の波に取り残され、新しい時代についていけなくなった武士たちのために、自らを犠牲にして、死に場所を用意してやったのだと。武士にとって、戦で死ぬ ことはこの上ない名誉とされた時代だったのだ。また西郷自身も、自分が古い時代の人間であり、明治の世にはついていけないサムライであることを自覚していたのかもしれない。
 西郷本人の真意はともかく、西南戦争は「武士の終焉」という時代の節目となり、滅びゆく武士たちの最後を慎む「挽歌」となった。