私学校の石垣に、今も生々しく残る西南戦争の弾丸跡

気を取り直して、「維新ふるさと館」へ。西郷や大久保が生まれ育った加治屋町にあり、すぐ近くに、それぞれ「大久保利通 生い立ちの地」「西郷隆盛誕生地」という石碑が建っている。実際に歩いてみて、ふたつの石碑の間がほんとに近いことに改めて驚く。幕末の二傑が同じ町内出身、しかもこんな近くに住んでいたなんて、あまりにもできすぎで、まさに「日本史上の奇跡」だよなーなんて思ってしまう。ここで育った幼なじみの二人が、絶妙の名コンビで幕府を倒し、明治維新を成し遂げたのだ。もちろん、この二人だけの功績ではないことは分かっているが、両者とも維新に欠くことのできない最重要人物である事は間違いない。
だが維新達成後、韓国問題をめぐって西郷と大久保は真っ向から対立し、遂に決別 してしまう。ひとり丸腰で韓国に行き、腹を割って話し合うことで、日韓摩擦を解決しようとする西郷。対して大久保は、西郷がどう思っていようと、相手が拒絶すれば戦争になる、韓国問題はしばらく延期し、まず国の内政を整えるべきだと主張する。互いに心から国のためを思えばこその、意見の対立、激突だった。動機が純粋なだけに、妥協の余地がなかった。 悲劇の原因はここにある。 司馬遼太郎の言葉を借りれば、「私利や私権の追求といったふうなものが、奇跡といっていいほどに双方の巨魁になかった。意見の純粋さだけで、かれらは国家をふたつに割るほどの対立をしてしまったのである」。
結局、遣韓論は決裂し、西郷は参議を辞任。鹿児島に帰り、私財を投じて私学校を設立する。桐野利秋、篠原国幹ら強硬派の軍人や、士族の特権をことごとく踏みにじる政府に不満を持つ士族たちが、続々と西郷の元に集まってきた。

 加治屋町を出てから、その私学校跡を尋ねた。とはいえ、今は建物も無く、石碑と石垣を残すのみ。その石垣には西南戦争の銃弾跡が今も生々しく残っている。予想していたよりずっと多く、壁一面 にびっしりと埋め込まれた銃弾跡に、今さらながら戦闘の激しさを思い知った。日本国内の、日本人同士の最後の戦いとなった西南戦争。薩摩のシンボルである西郷の存在が邪魔になった大久保が、薩摩と西郷をつぶすために仕組んだ戦争で、西郷はまんまとそれにはめられてしまった…というのが「大久保憎し」の歴史研究家の見方だが、果 たして本当にそうだろうか。今も「盟友・西郷を殺した裏切り者」という汚名が大久保にはつきまとう。自ら直接手を下さなくとも、結果 的に西郷を死に追いやったのは大久保だという。だが私情をかなぐり捨て、かっての親友と郷土を犠牲にしてまで国益を優先させた大久保の心情を思うと、「殺した」という表現は使いたくない。あえて「葬った」と言いたい。

 史実だけを追うと、西郷の私学校設立を脅威と見た政府が視察団を鹿児島に派遣。このやり口に憤激した私学校生徒達が西郷に挙兵の決断を求め、ついに西郷が決起。日本陸軍(新政府)対士族の最後の戦いであり、また最大の激戦となった西南戦争が勃発する。
 一方、政府の大久保は、西郷だけは最後の最後まで薩摩の反乱軍に加わっていないと信じていたという。 否、信じようとしていたと言うべきか。薩摩軍の大将が西郷だと知った時には、ショックで部屋の中を歩き回り、鴨居に頭をぶつけたそうだ(長身だったんですね)。  >>続く