背番号のない背中

 
サポーターと喜びを分かちあおうと選手たちがゴール裏にやってきたとき、バラックは黒いアンダーシャツ姿だった。きっと相手選手に頼まれてユニフォームを渡したのだろうと、そのときは思った。
 そうではないと知ったのは、帰国後、動画を再生していたときだった。ゴール裏に来た選手たちが手をつなぎ、サポーターとともにバンザイを繰り返す様子を、私はカメラの動画機能で録画していた。間の抜けたことに、音声をオフにしていたことを忘れていたので、当然動画も音声なし。まるで無声映画のような映像を見ながら、「おや」と思った。ゴール前に来た選手たちの後ろで、バラックがひとり、隣のスタンドに向かって歩いている。片手に小さく丸まった布らしきものを持って。拡大してみると、それはユニフォームだった。てっきり相手選手にあげたのだと思っていたが、そうではなかったのだ。
 ビデオでは肝心のところで、バラックの体が見切れてしまっている。なのではっきりとは分からないが、恐らく彼はそのユニフォームを、スタンドごしにサポーターに手渡したのだろう。そういえば彼は今季ほとんどの試合で、試合後はアンダーシャツ姿になっている。毎試合、サポーターにユニフォームを手渡しているのだろうか。相手選手にではなく。
 動画を再生するまで気づかなかった、本当にささいなワンシーンだが、彼がこのクラブを愛していること、そしてそう遠くないうちに別 れがやってくることを感じさせた。

 音声のない動画は、バンザイを終えた選手たちがスタンドに背を向け、いつもの足取りでピッチを去っていく様子を映していた。だがバラックはゆっくりした足取りで、サポーターに向かって手を叩きつつ、スタンドのすぐ前を通 って引き上げていった。その様子をレンズで追いながらも、肉眼にしっかり焼き付けようと背伸びしていたことを思い出す。背番号のない背中がみるみる遠ざかっていく。通 路に入る直前、彼はメインスタンドに向けて拳を突き上げた。そのガッツポーズを見たとき、試合中も何度となく感じていたことを、改めてはっきり感じた。――なんて幸せな選手だろう!
 35歳という、普通なら引退しているか、俗に言う「年金リーグ」でプレーしているだろう年齢の選手が、チャンピオンズリーグの大舞台で戦っている。それもチームのリーダーとして、自らの実力と経験を存分に発揮することができる。「不運」どころか、今、世界でもっとも幸せな選手なんじゃないだろうか。二度の大怪我を乗り越えての復活だけに、なおさらそう感じる。一年前の今頃は、引退も危惧されていたほどなのだ。
 彼は今、プレーしている一瞬一瞬に幸せを感じているに違いない。世界でもっとも幸せな選手。そんな思いは、試合後、取材拒否を続けていたバラックがついに沈黙を破ったと聞いて、さらに強くなった。
 これまでたとえ自分が活躍して勝った試合であっても、報道陣を避けてスタジアムの裏口から帰って行ったバラックが、テレビのインタビューに答えたのだ。いったい、どういう心境の変化があったのだろうか。ただ「活躍して勝った」だけではない、それよりもっと大切なもの――監督やチームメイトからの信頼を、この試合でつかみとったからではないだろうか。ドゥット監督の元では一度も90分間プレーできなかったバラックが、この試合以降、鼻骨骨折でやむをえず交代した以外は、ずっと90分間プレーしている。彼はこの試合で、監督からも「リーダー」だと認められたのだ。
 サッカー人生も終盤の30代半ばになって、自ら選んだ環境で周囲から信頼され、プレーで後輩たちを引っ張っていくことができる。それがどれほど幸せで恵まれているか、彼は気づいたのではないだろうか。だから長い沈黙を破って、メディアに口を開いたのだ。そして「自分は今、幸せだ」と気づいたことで、昨年5月に重傷を負ってW杯を欠場して以来、続いていた苦難の期間からもようやく、抜け出せたのではないか。そう感じた。

⇒続く