アイラン!アイラン!

 それにしても、つくづく貴重な体験をしたと思う。周りを大量の外国人サポーターに囲まれてのサッカー観戦なんて、この先、しばらく日本ではできない体験だろう。その日はずっと、まるでここが日本じゃないような気がしていた。そこら中から聞こえてくる野次や声援、応援歌も当然ながらすべて英語で、まるで外国のスタジアムで観戦しているようだった。
 だから自然と、私のテンションも高くなっていったのだろうか。普段の私なら、熱心なサポーターの近くで観戦するのはうるさいからやだ、と敬遠しているのに、この日はちっともうるさくなかった。むしろ心地よかった。こんなことを書いたら非国民といわれるかもしれないし、また自分でもそう思うけど、日本代表の試合を見ているよりずっと楽しかった。サッカーの試合を見るのって、こんなに楽しいことだったんだ、と改めて実感できた試合だった。
 何より、応援を強制されないのがいい。日本の応援の何が苦手かって、応援を上で仕切っている集団がいて、サポーターは彼らの指示に従って、全員が同じ仕草を繰り返していることだ。私は間違っても、あの中には混ざりたくない。サッカーを見に来たのに、なんで試合中ずっと立ちっぱなしで、リーダーの指揮に従って始終踊ってなきゃならんのだ。日本代表には勝ってもらいたいと思うし、応援もしているけれど、あまりスタジアムで試合を見たいと思わないのは、そういう理由からだ。
 この日、体験したアイルランドの応援は、応援の指揮を取っている人たちはどこかにいたかもしれないが、日本ほどには目だたなかった。それより、誰か一人が大声でコールを始めると、自然とそれが全体に波のように広がっていって、瞬く間に大声援となってスタジアムに響き渡る、そんな応援だった。
 誰かに強制されてする応援ではない、自然発生的な応援は、こっちもついついひきこまれて、無意識のうちに声を出して参加していたりする。ゴール裏はどうだったかしらないが、私のいたバックスタンド席は、普段は座って見ているけれど、チャンスの場面 になると立ち上がり、チャンスが過ぎるとまた座るというスタイルで、とても自然で疲れなかった。

 そうやって周囲のアイルランドサポに乗せられて応援しているうちに、どんどんアイルランドに感情移入していき、試合の後半も半ばを過ぎた頃には、席を立って、もっと向こうの、アイルランドサポがあまりいない場所に移動したい気持ちが強くなった。このままアイルランドが負けてしまって、周りのサポーターたちががっくりと気落ちする様子を見たくなかったのだ。
 こんなに一生懸命応援しているのに、結局一点も入れられずに負けてしまうなんて、どんなに悔しいことだろう。その瞬間のスタンドの落ちこんだ空気を想像するにつれ、とても私はその場に立っていられないと思った。幸い、すぐ後ろの通 路をまっすぐ行けば、ドイツ側スタンドに移動できることはハーフタイムの際に確認してある。なので試合が進み、アイルランドの敗北がますます濃厚になっていくにつれて、「早くこの場を離れなくては」という気持ちがますます強くなっていった。


誰かひとりがコールを始めると、それがみるみる全体に広がっていくのが、
アイルランドの応援スタイル。

  が、しかし。このスタジアムで観戦するのが初めての私は、いったいどこに試合の残り時間を示す時計があるのか分からなかった。いや、スコアボードにそれらしい時計はあるのだが、読み方が分からなかったのだ。
 なので体感的に、試合時間がもう残り少ないことは分かっていたが、正確な時間は分からなかった。もし分かっていたら、ロスタイムに入った時に「もうダメだ。終わった」と席を立って、ドイツ側スタンドに移動していたと思う。

 が、時間の読み方すら分からない私の馬鹿さ加減は、この試合に限ってはラッキーだった。
 攻めても攻めてもゴールを割れないアイルランド。隣のアイリッシュのおじさんが、さっきからしきりにスコアボードの時計を見上げている。その焦った表情を見て、残り時間がもうあとわずかであることが私にも分かった。だがドイツの守りは岩のように堅くて、とても崩せそうな気がしない。
  時間稼ぎか、ゆっくりとパスを回すドイツ。が、微妙にボールコントロールが狂って、自軍の選手に送ったはずのパスがアイルランド選手に渡った。突然、スピードに乗ったドリブルでドイツゴールに襲いかかるアイルランド。が、またしてもドイツDFに跳ね返される。こぼれたボールをドイツMFイェレーミスが拾って、左サイドを駆け上がるバラックにパス。が、ボールは大きく弧 を描いてファウルラインを越えていった。バラックはさすがに疲れているのか、途中でボールを追うのをあきらめた。逆に、アイルランドDFブリーンはファウルになったボールを必死に追いかけ、勢い余ってドイツベンチに激突しそうになった。
 すぐさま、ハーフライン付近からスローイン。そのボールを受けたMFフィナンが、自軍の選手に「上がれ!」と手振りで指示を送った後、ロングボールを前線に蹴りこんだ。途中から入ったFWクインが、そのボールを追ってドイツDFと激しく競り合う。勝負に勝ったクインは、ボールをヘッドでゴール前に叩きつけた。ペナルティエリア内に転がっていくボール。DF二人の間を縫うように走りこんできたロビー・キーンが、素早くそのボールに追いついた。
 すべては一瞬の出来事だった。キーンが蹴ったボールが飛び出してきたカーンの額に当たってコースが変わり、勢い良くゴールポストに跳ね返ってそのままネットを揺らした瞬間を、私は一生忘れないだろう。今も瞼に焼きついている。
 が、ゴール後のキーンの側転パフォーマンスまではしっかりと目で追っていたものの、その直後、興奮のあまりとち狂った隣の兄ちゃんに背中をバシバシ叩かれて、前のめりにつんのめった。なんとか転ばないようにバランスを取って体を立て直したものの、すぐまた背中を強く叩かれる。隣のおじさんがとっさに支えてくれなかったら、そのまま前に転んでいただろう。
 アイルランドサポの歓喜の絶叫が響く中、ようやく体勢を整えてピッチに目をやると、抱きあいながら倒れ込んでいるキーンとクインの上に、チームメイト達が次々に飛びかかっていくのが見えた。それを見て、彼らがやっとの思いで同点に追いついたことを実感し、目頭が熱くなった。
 それから1分も立たないうちに、試合終了のホイッスルが鳴り響き、再びスタンドは絶叫に包まれた。それはもちろん、喜びの叫びだった。
  この時の絶叫はマジですさまじかった。今まで生きてきて初めて、「やばい、鼓膜が破れる」と怖くなったほどだ。
  それから後はもう、お祭り騒ぎだった。誰かれかまわず抱きあい、握手し、アイルランド国旗を振りかざして、喜びを分かち合った。
 だが私は、その歓喜の輪の中に入っていけなかった。元々はドイツファンで、試合途中からアイルランド応援に寝返った私なんかに、彼らとともに喜びあう資格なんか無いように思えたのだ。
 それに正直、まだ信じられない気持ちでいっぱいで、喜びを実感できるところまでいっていなかった。ただ、後々語り継がれるであろう伝説の試合の現場に立ちあえた、という実感だけがあった。

⇒続く


「やった!」
試合後、まっさきにスタンドに走り寄り、サポーターに向かってガッツポーズを繰り返すアイルランド選手たち。
左の選手がドイツのユニフォームを
着ているのは、ドイツ選手とユニフォームを交換したため。