映画「UNDER AFRICAN SKIES」
についてのひとりごと


 

懐かしいLPレコードに針を落とすシーンから、映画は始まる。レコードのタイトルは「グレイスランド」。南アフリカ音楽のエッセンスと、ポールの持ち味である都会的ポップスを融合させた野心作で、ソロとしての最高傑作かどうかは人によって評価が分かれるところだが、ソロとしてもっともヒットしたアルバムであることは間違いない。
アルバムが発表されたのは1986年。当時のニュース映像が流れ、キャスターが「グレイスランド」が500万枚を売り上げる大ヒットであることを伝える一方、激しい議論を呼んでいることを伝えている。アルバム制作のため、南アフリカを訪問して現地のミュージシャンとセッションしたことが問題になったのだ。
当時の世界情勢を知らない人は「なぜ、そんなことで」と思うかもしれない。だが当時、南アフリカではアパルトヘイト政策(人種隔離政策)が行われていた。少数の白人を優遇するため、白人から黒人を隔離する政策で、黒人たちには外の通 りを自由に歩く権利もなく、常に通行許可証の携帯が義務づけられていた。当然、この人種差別 政策に反対する運動が活発になり、国際世論もそれに同調。アパルトヘイトを撤退させるべく、南アフリカに経済制裁を加えるなどした。国連もまた、南アフリカへの処置として、文化的交流のボイコットを呼びかけた。この「文化的交流」には音楽家たちも含まれる。南アフリカでコンサートを行ったり、レコーディングをしたりすることは禁止されていたのだ。そうして南アフリカを世界から孤立させることで、アパルトヘイト撤退へ追い込むことが目的だった。
他の音楽家たちは、アパルトヘイト反対の立場から、国連が定めたこのルールに従っていた。だがポールは「グレイスランド」制作で、そのルールを破ったのだ。

このあたりのいきさつ――いわゆる「グレイスランド論争」については、これまでも伝記『ポール・サイモン(パトリック・ハンフリーズ著/音楽之友社)』などで読んで、知識として知ってはいた。だが今回この映画を見て、さらに当時の状況がリアルに伝わってきた。というのも、この映画には当時、ポールを批判していた側の代表である「ANC(アフリカ民族会議)」の人間も登場して、自分の意見を述べていたからだ。(ANCは、黒人解放運動の中心を担ってきた南アフリカ共和国の政党。かつてネルソン・マンデラも所属しており、副議長、議長を歴任した)
前述したポールの伝記では、やはりポールを擁護する記述が多く、彼を批判する側の声はほとんど載っていなかった。だからどことなく「不公平だな」という読後感があった。
しかしこの映画では、ポールを批判していた側の人物にもスポットを当て、彼の声をたっぷりと紹介している。その人物が、「アーティスト・アゲインスト・アパルトヘイト」創設者のダリ・タンボ氏。だがその肩書きよりも、「ネルソン・マンデラと並ぶ反アパルトヘイト運動の伝説的指導者、オリバー・タンボ氏の息子」という肩書きの方が分かりやすいかもしれない。
オリバー・タンボ氏は元ANC議長で、60年に拘束を逃れてイギリスに亡命。以後、90年に南アフリカに帰国するまで、海外からアパルトヘイト撤廃を世界に訴えた。
グレイスランド論争の際にも、ANC議長としてポールを批判する側だったオリバー・タンボ氏の息子が、映画に登場するダリ・タンボ氏だ。このタンボ氏、初登場のシーンから「ポールの音楽性や才能を南アフリカ音楽と融合させるなんて、素晴らしい発想だ」とまずはポールを持ち上げつつも、その直後に、「だが当時の世界情勢を考えてほしい。彼の行動は無益だった」と、世界中のポールファンを「なにィーー!」と憤らせる挑発発言をかましてくれる(笑)。これはうまい構成だと思った。タンボ氏のこの「宣戦布告」ともいえる発言によって、ファンはこの映画が、単純なポール賞賛の映画ではないことを知る。映画の早い段階で、タンボ氏という「敵役(しかし悪役ではない)」が登場することで、視聴者はぐいと映画に引き込まれるのだ。

アパルトヘイト政策下で抑圧され、警官に連行されている黒人の映像をバックに、タンボ氏は語る。「私たちはアパルトヘイト撤退のために闘った。そして世界中の音楽家に伝えた。今、私たちの運動を支援したいと思うなら、南アフリカには来ないでほしいと」「そんな中で、ポールの南アフリカ訪問は脅威に映った。差別 撤廃運動家としては、彼の行動は認められない」
タンボ氏のポール批判の後、カメラは、約20ぶりに南アフリカの地に降り立ったポールを映す。グレイスランド発表から25周年を記念し、アルバムに参加したミュージシャンたちとセッションを行うため、再びこの国にやってきたのだ。
空港から街へと走る車の中で、ポールは25年前を振り返って言う。「アルバムと僕自身への非難に、僕はひどく傷ついたよ」
ポールの率直な発言だが、あれから25年たった今もなお、被害者意識たっぷりなポールにちょっと苦笑してしまう。というのも、グレイスランド論争について調べれば調べるほど、あれはポールの「自業自得」だったと思えてくるからだ。
もちろん私も、ポールにはANCの黒人解放運動を邪魔する気持ちはなかったのだと信じている。ましてや「ポールは裕福な白人の権力で、貧しい南アフリカの黒人ミュージシャンから搾取した」などという一部の批判は、全くの的外れだと感じる。ポールにそんなつもりがなかったことは、これまでの彼のキャリアを見ても明らかだ。彼はS&G時代からワールドミュージックを愛し、そのエッセンスを意欲的に自分の音楽に取り入れてきた。
「グレイスランド」は、そんな彼のキャリアの集大成ともいえるアルバムだ。偶然出会った南アフリカ音楽に惚れ込み、いてもたってもいられなくなって南アフリカに飛び、現地のミュージシャンたちとセッションをした。当時の政治情勢や、国連が定めた文化ボイコットのルールなど全く無視したその行動を、「音楽家としての本能に従っただけ」「ポールは純粋すぎたのだ」と擁護する人は多い。

だがいくら動機が純粋だからといって、他の音楽家たちがみな守っているルールを破っていいものだろうか。他の音楽家だって、南アフリカでセッションしたいと思っていたかもしれなくて、それでもアパルトヘイト撤退のために現地に行くのを我慢していたかもしれないのに。
だから私はこの論争について、「ポールには悪気なんかなかったし、結果的に素晴らしいアルバムができたんだからいいじゃん」とは言えない。そこまで開き直れないのだ。「グレイスランド」は大好きだけれど、それとこれとは問題が別 。ファンの私でさえそう思うのだから、黒人解放運動の中心だったタンボ氏なら、なおさらだろう。彼が「問題はポールではなく、黒人を解放できるかどうかだった」と言うのももっともだと思う。ポールが素晴らしいアルバムを作ったどうこうなどは、彼にとって全く関係ないのだった。
もっとも、ポールも悪気はなかったとはいえ、事前にハリー・ベラフォンテに南アフリカ訪問を相談し、彼から「行く前にANCから了解を取るように」と言われていたにもかかわらず、それを無視して南アフリカに飛んだのだから、彼に全く非がないとはいえない。その理由についてベラフォンテは「ポールは、音楽家の表現する権利は、何よりも優先されると考えたんだ。組織に懇願するような真似はしたくなかったのさ」と語る。またポールも当時、ANCと話し合った時、ANCから「なぜ事前に許可を取らなかった」と責められたことについて、「音楽家を支配するつもりか」「どうしていちいち政治家にお伺いを立てなきゃならないんだ」と苛立たしそうに語っている。
だがこの問答はおかしい。ポールは意図的になのか、それとも素なのか知らないが、問題をすりかえているように思う。ANCが南アフリカ訪問の許可を取らなかったことを責めたのは、音楽家を支配したいとかいう欲からではなく、ポールの行動が黒人解放運動の妨げになる危険があったからだ。
もしかしたらポールはANCと話し合ったとき、その口調や言い回しから、ANCに威圧的なものを感じたのかもしれない。見かけによらず(笑)誇り高くて気が強いポールは、「自分は素晴らしいアルバムを作ったのに」という自負もあって、ああいう感情的な返答になったのかもしれない。
だがたとえ威圧的なニュアンスがあったとしても、この場合、何よりも優先されるべきは南アフリカの黒人を解放することであり、ポールの「政治家の言いなりになりたくない」という音楽家としての意地やこだわりは、後回しにされても仕方がない。

――と、いかにも正論っぽいことを書いてみたけれど。しかしこの映画の冒頭シーンのように、いざ「グレイスランド」にレコード針を落としてみると、そんな正論なんかどうでもよくなって、「ああポール、当時の政治状況や国連のルールなんか無視して、南アフリカに飛んでくれてありがとう!」という気になってしまうのだった(笑)。だってもしポールがあの時、ベラフォンテの意見を素直に聞いてANCにお伺いを立てていたら、たぶん南アフリカ訪問はなかっただろうし、そうすると「グレイスランド」も生まれなかっただろうから。そう思うと、やはり時代を作る名作というものは、あらゆる規制や弊害を超越して生まれるものなのだと感じる。
それまでポールはどちらかというと、おとなしい、優等生的な音楽家だと考えられていた。政治体制に歯向かうようなことまず、しないだろうと。そのポールが突然、国連のルールを破ったのだから、さぞや周囲はびっくりしただろうと思う。だがそうして作ったアルバムが、結果 的には彼の最高傑作となったことに、何か運命的なものを感じる。ポールは「グレイスランド」でそれまでの殻を破って新しい音楽を創造するとともに、「おとなしい優等生」という従来の音楽家像をもかなぐり捨てたのだった。

ふたつの旅

この映画には「Paul Simon's Graceland Journey」という副題がついている。その「Journey(旅)」とはもちろん、ポールの約20年ぶりの南アフリカ訪問を指しているが、実はもう一つの旅が隠されていると思う。かつて自分を批判した、ANCとの和解に至る「心の旅」だ。
会心の大ヒットアルバムを作ったポールには、南アフリカ音楽の素晴らしさを世界に広められた、自分は南アフリカの黒人たちに良いことをしたんだという「自負」も少なからずあっただろう。だから黒人解放運動家たちから思わぬ 批判を受けたことがショックで、これまでずっと心のどこかで引きずっていたのだと思う。約20年ぶりの南アフリカ訪問は、そんな長年の「心のわだかまり」を解消するための旅でもあった。

街へ向かう車の中で、ポールは「僕とアルバムへの非難に傷ついた」と言いながらも、「議論の深いところまでは知らないんだ」と言う。そして「南アフリカの人々の意見をもっと聞いてみたい」と、タンボ氏の自宅を訪問する。ここから、この映画のもう一つのメインストーリーともいうべき、ポールとタンボ氏の対話が始まる。 かつて自分を批判していた人物と初めて対面し、警戒心を隠せないようなポールを、タンボ氏はにこやかな笑顔で出迎える。これは「グレイスランド論争で自分が言ったことは正しい」と確信しているからこその、余裕の笑顔だろう。
ソファーに座ってポールと向かい合いながら、タンボ氏は言う。「文化ボイコットの件について、君に悪意がなかったことは知っている。そして残念に思ってる。君の傑作が、政治的状況に巻き込まれてしまったからだ」 「誤解されたのは残念だったし、ずっと心にひっかかってた」とポール。「だから僕も話すから、君の意見も聞かせてほしい」と、彼はグレイスランド制作のきっかけを話し始める。
全ての始まりとなったのは、一本のカセットテープ。そこから、南アフリカへの旅が始まった。現地ミュージシャンとのセッション、そしてレコーディング。その音をニューヨークに持ち帰って、曲を作り、歌詞を乗せていく地道な作業。南アフリカのミュージシャンたちをニューヨークに呼び寄せてのアルバム録音。アルバム発表と、それに続くワールドツアー。
アルバムは大ヒットしたが、同時に文化ボイコット破りへの批判も噴出した。ツアー中も批判はやまず、アルバム不買運動なども起こる。アルバムに参加した南アフリカの黒人ミュージシャンのほとんどはツアーにも参加していたが、彼らにも抗議の矛先は向けられた。黒人解放運動をしている白人から「南アフリカへ帰れ」と暴言を浴びせられ、レイ・フィリが激怒したというエピソードが印象的だ。「アパルトヘイトで酷い目にあってるのは俺たちなのに、なぜそんなことを言われなきゃならないんだ」と。

ポールについては「批判されたのも自業自得」と思ってしまう私だけど、アルバム制作に協力し、ツアーにも参加した南アフリカのミュージシャンたちについては、単純に「自業自得」とは言い切れない。彼らも文化ボイコットは知っていただろうし、そのルールを破ってポールに協力することのリスクも知っていただろう。母国の黒人たちから、もしかすると「裏切り者」呼ばわりされるかもしれないリスクさえも。
「文化ボイコットについてもちろん知っていた」と話すのは、南アフリカの音楽プロデューサーであるコロイ・レボナ。だが彼はポールの求めに応じて、アルバムを作るための現地ミュージシャン集めに協力する。リスクを承知の上でプロジェクトに参加したのは、「それまで三流のように扱われていた南アフリカ音楽を世界にアピールする、またとないチャンスを逃したくなかった」からだ。
彼に「ポール・サイモンがミュージシャンを探している」と声をかけられた南アフリカのミュージシャンたちもまた、同様に「チャンスだ」と思ったに違いない。それを「立志出世の欲に負けて、反アパルトヘイトのルールを破った」と、誰が偉そうに批判できるだろう。 そもそも、いくらアパルトヘイト撤退のためだとはいえ、南アフリカのミュージシャンを世界から隔離するのはおかしい。母国でも白人たちから隔離され、世界からも文化的に隔離され――ヒュー・マサケラも言う。「文化ボイコット自体は役に立ったと思うが、ミュージシャンへの規制には反対だった。優れた音楽家を世界から隔離することにはね。それは人々の苦しみを増すだけだ」
私もマサケラの意見に同感だ。だから南アフリカのミュージシャンたちが、ポールと出会ったことでその名を世界に轟かせられたことは素直に嬉しい。だがタンボ氏の次の言葉を聞いて、はっとした。
「確かに南アフリカのミュージシャンたちは、君のアルバムに参加することで世界にその実力をアピールできた。だがそんな彼らも国に帰れば、政府に抑圧され、通 行許可証を義務づけられているんだ」
この言葉には胸を突かれた。確かに、そうだ。ポールのワールドツアーに同行し、ステージで世界中のファンから喝采を浴びようとも、それはほんのいっときだけで、ツアーが終わって国に帰れば、実は彼らの日常は何も変わっていない。
アルバム制作にしたってそうだ。ポールはたかだか二週間南アフリカにいただけで、セッションの録音が終わるとすぐまたニューヨークの、セントラルパークを見下ろす高級マンションに帰ってしまう。だが彼と共演した南アフリカのミュージシャンたちは、ポールが去った後も抑圧された過酷な日常を生きなければならないのだ。
ましてや、ミュージシャンでもなんでもない、大多数の南アフリカの黒人たちは? ポールは「アーティストが表現する権利」を主張し、「仲間」である南アフリカのミュージシャンたちの権利は守ろうとするけれど、それ以外の、南アフリカにいる名もなき黒人たちのことまで視野を広げられていない。自分の周りの木だけを見て、森を見ていない。自分たちの活動が、黒人解放運動の妨げになるかもしれないとは想像できない。だから批判されたとき、かなり驚いたのではないかと思う。「傷ついた」というのも、それが全く予期せぬ 批判だったからだろう。

ではポールが「グレイスランド」でやったことは、本当に黒人解放運動の妨げになったのだろうか? それとも映画が示唆しているように、アルバムの大ヒットによって世界中の人に南アフリカの問題をリアルに感じさせ、むしろ黒人解放運動を後押ししたのだろうか?
確かな答えはどこにもない。確かなことはただ一つ、1990年2月にアパルトヘイト法が全廃したということのみ。「グレイスランド」発表から4年後のことだった。

25年目の和解

私が「グレイスランド」に惹かれる理由の一つに、アルバムの中に「プロテストソングが一曲もない」というのがある。文化ボイコットを破ってまで南アフリカに行き、実際にアパルトヘイトで苦しんでいるミュージシャンたちと共演したのだから、普通 ならプロテストソングの一曲くらい作りそうなものなのに。ポールも一時はプロテストソングを作ることを考えたと、映画の中で語っている。だが結局はその考えを放棄した。理由は「僕の得意分野じゃない」から。
その、いかにもポールらしい理由に嬉しくなると同時に、だからああいう批判を浴びたんだなとも思う。前述した、「裕福な白人が、南アフリカの黒人から搾取した」という批判だ。もしポールがアルバムに、アパルトヘイトへのプロテストソングを入れていたら、こうした批判は起こらなかった――まではいかなくとも、かなり少なくなっていたのではないだろうか。
だがポールはプロテストソングを作らなかった。そして「いかにもアフリカ的」な曲も作らなかった。南アフリカ音楽のリズムとコードは取り入れたものの、完成した曲にはアフリカの土着的な匂いはほとんど感じられない。都会的にソフィスティケートされたポップソングだ。歌詞にも南アフリカについて触れたものはなく、南アフリカの地名も登場しない。代わりにニューヨーク、ミシシッピなど、これまで同様アメリカの地名が登場する、アメリカを舞台にしたアメリカ人の歌になっている。そこが、いかにも「自分の都合のいいように南アフリカ音楽をつまみ食いした」風に思われて、反感を持たれたのだろう。日本の音楽雑誌でも、当時、そのような批評を読んだのを思い出す。
だがポールは、どの国の音楽に影響されようとも、結局はポール・サイモンであることを変えられない人なのだ。いやむしろ、どんな国の音楽も「ポール・サイモン風」にできるからこそ、あらゆる国の音楽を取り入れられるのだと言える。彼を支えている根本的なものは決して揺るがないし、ブレない。映画の中でポールは言う。「プロテストソングは作らなかった。僕はただ、最高の音楽をつくりたかっただけだ。南アフリカの苦境を歌ってくれと頼まれたわけじゃない」
いくら南アフリカのミュージシャンと共演したとはいえ、彼らの苦境を訴えるために不得意なプロテストソングを作っても、それはポールの思う「最高の音楽」にはならない。だから彼はプロテストソングを作らなかった。単純明快で、潔くさえある。この潔さは、自分の音楽に絶対的な自信を持っているからこそ生まれるものだ。そのことをこの映画で再確認して、ますますポールが好きになった。

もうひとつ、ポールを好きになったシーンがある。映画のラスト、彼が文化ボイコット破りについて、タンボ氏に謝ったシーンだ。
正直このシーンは唐突で、なぜ急にポールがタンボ氏に謝ったのか、そこに至るまでの心の変化がよく分からない。それまでのタンボ氏との対話の中でのポールの発言からは、自分の過ちを認めているとは感じられなかったからだ。
だが「ずっと心にひっかかってた」というグレイスランド論争と向き合い、自分を批判していたANCの人間と向き合い、彼に自分の意見を話すことで、ポールの中で何かが吹っ切れたのだろう。
「君に謝るよ。君たちの活動を邪魔するつもりは全くなかったんだ。それは分かってほしい」と言うポールに、タンボ氏も「過去は水に流そう。君たちを歓迎するよ」と答え、二人は抱擁を交わす。25年目の和解の後、映画は「シューズにダイヤモンド」のライブ演奏をバックにエンドクレジットが流れる。そして始まりのシーンと同じように、ライブ演奏が終わってレコード盤から針が上がったところでジ・エンド。

ポールがタンボ氏に謝ったことを、残念に思う人もいるかもしれない。彼が謝ったことで、「グレイスランド」の栄光にケチがついたような気分になるかもしれない。
だが私はポールが謝ったことに感動した。初めは唐突すぎて「えっ?」と思ったけれど、その後、タンボ氏と抱擁するポールの心から安堵した笑顔を見て、「ああ、彼はずっとこうして和解したいと願っていたんだな」と感じた。文化ボイコットを破ったことで、反アパルトヘイトに非協力的だという誤解を解きたかったのだと。そしてその願いがかない、長年の胸のつかえがとれて、本当に良かった。そのシーンの背景に流れているのが「ホームレス」というのがまた良い。そしてその後、エンドクレジットで流れる「シューズにダイヤモンド」のライブ演奏のさわやかなこと。ポールとレディスミス・ブラックマンバーゾの息のあったハーモニーが聴けるこの2曲こそ、人種の壁を越えた絆を描くこの映画のラストを飾るのにふさわしい。

「当時の政治問題はもう存在しないけれど、音楽は今でも人をひとつにすることができる」ポール・サイモン


ブログより抜粋しました。