短気うさぎは主人公の爪をとぐか
〜 ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち〜

以下、ネタバレしまくりなので未読の方は注意

 昔から、二人以上の男たちが組になって闘う「バトルもの」や「冒険もの」が好きだった。こういった作品では、男たちの組み合わせには一つのパターンがある。主人公は正義感にあふれた、真面 目で勇敢な正統派ヒーロー。主人公に次ぐ「二番手」キャラの男は、不良っぽくて皮肉屋。だがいざバトルとなると頼もしい味方になる。こういう組み合わせの場合、品行方正な主人公よりも、不良っぽい「二番手」の方が魅力的にうつり、人気が出るものだ。ぱっと思いつくのは映画「スター・ウォーズ」のハン・ソロだろうか。
 だがいくら「二番手」の方が主役よりカッコ良くても、じゃあ「二番手」が主役になったらもっとカッコいいかというと、それが違う。やはり彼らは「二番手」というポジションだから引き立つのだ。
 以前、ハン・ソロが主役になったSWのスピンオフ小説を読んだことがある。小説そのものはスピンオフとしてはレベルが高く、手に汗握るストーリーなのだが、ハンがなんか映画より優等生になっていて、物足りない。それは彼がこの物語の「主役」だからだろう。彼はやはり、脇役でこそ引き立つキャラクターなのだ。 

 で、「ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち(原題watership down. 以下、欧米の真似をしてWDと略す)」である。自分たちの家である「巣穴」に危機が迫っていることを察知した野うさぎたちが、理想の地をめざして旅立ち、様々な困難を乗り越えて新たな「村」をつくる物語だ。
 この作品にも主人公と「二番手」が登場する。主人公はヘイズル、「二番手」はビグウィグだ。ヘイズルは仲間たちのリーダーとして、彼らを理想の地へと導いていく。誰にでも平等に接し、心優しくも冷静で、いざとなれば仲間のために我が身を危険にさらす勇気ももちあわせている。独断に走らず、仲間から積極的に意見を聞いて、それを取り入れる。(作者のリチャード・アダムズいわく、ヘイズルは「理想的な民主主義のリーダー」なのだそうだ)
 ――とまあ、この紹介だと優等生すぎて魅力に乏しいようにうつるかもしれない。だが小説では、最初は「なりゆき」でリーダーになったヘイズルが、様々な経験を乗り越えて本当のリーダーへ成長していく姿を丁寧に追っている。ヘイズルの内面 の心の揺れ動き――不安や焦り、葛藤などが細かくつづられているから、読者は自然と彼に共感していく。これは小説ならではの魅力だろう。事実、ヘイズルの心理描写 が全くない映画では、彼は無個性な主人公に見えてしまい、魅力に乏しかった。
 そんなヘイズルに対して、ビグウィグ兄貴(以下ビグ兄)は武闘派のサブリーダー。体が大きく、戦うことが大好きな根っからの戦士だ。性格は短気で乱暴、皮肉屋なところがある。それでいて根はやさしく、口では「こんな連中(小さくて弱いうさぎたち)放って、俺たちだけでさっさと逃げようぜ」という主旨のことを言いながらも、いざとなるとその弱いうさぎたちを体を張って助ける。はっきり言って「おいしい」役どころだなあと、上巻を読みながら感じていた。きっと主役のヘイズルよりも、ビグ兄の方が好き、という読者もいるのではと。

 とんでもなかった。「おいしい」どころか、下巻では、このビグ兄が実質的な主役になって物語を牽引していくのだ。これには驚いた。これまでのパターンとしては、いくら「二番手」がカッコよくても、あくまで物語を牽引するのは主人公で、もっともおいしい場面 は主人公が演じた。物語のクライマックス、ラスボスとの一騎打ちは主人公の出番だった。主人公なんだから当然だ。
 だがWDはこの「常識」を、ぴょんと軽く飛び越えた(うさぎ跳びのように!)。クライマックスで、最大の敵ウーンドウォート将軍(一応うさぎ)と一騎打ちをするのはヘイズルではなくビグ兄だ。それだけではない。この一騎打ちの前にももう一つ、この物語のクライマックスがあるが、その主役を演じるのもビグ兄なのだ。彼は単身、対抗しているうさぎたちの繁殖地(というか、アジト)「エフラファ」に乗り込み、諜報活動を展開する。そしてなかば囚人のような暮らしを強いられているめすうさぎたちを引き連れて、アクション映画さながらの脱走劇を成功させるのだ。なんだこの、完全に主役交代ともいえるような超展開は。まあ、面 白いからいいけど。

 一応、この「主役交代」には伏線があって、ヘイズルは上巻の終わりの方で片足に銃弾を受け、以来、足をひきずっている。その負傷も、仲間を助けるために自分が犠牲になったから。なのでこの「名誉の負傷」により、ヘイズルはますます仲間に尊敬される。もう押しも押されぬ リーダーだ。
 なので下巻で、華々しいアクション場面をビグ兄に譲るのも、ヘイズルは「足をひきずっていて、まともに走れない」から仕方ない、という理由付けがちゃんとある。それに自ら戦えないぶん、ヘイズルは皆をまとめる統率力と知力で勝負する、という設定だ。「主役と二番手」にそれぞれ全く別 の役割が与えられている。この構成が生きて、物語は後半、怒濤の盛り上がりをみせる。仲間たちの危機を救おうと、人間が営む農場に忍び込んだヘイズル。つながれている凶暴な犬を「助っ人」として利用すべく、その犬の綱をかみきるのだ。作戦はみごと成功するが、いざ農場を後にしようとしたとき、彼はいきなり猫に襲われる。がっしりと上から押さえつけられ、逃げられない。まさに絶体絶命!どうやってこの危機を脱出する?とスリルが盛り上がった直後、「はぁ〜?」と脱力するようなオチが待っていた。

 人間がヘイズルを助けるのだ。

 これには本当にがっかりした。しかもその場面は、というよりその章は、一章まるごと人間の視点で語られるのだ。それも少女。なにそれ。その章だけ、ものすごい異物感を感じるんだけど。
(他の章はすべて、うさぎたちの視点で語られている)
  ……とここで私はようやく、これが児童文学として出版されたということを思いだす。あー、だからクライマックスで人間の女の子(猫の飼い主)が出てきて、主人公を助けるのか。でも、叱られた猫がかわいそうだ。ねずみやうさぎをつかまえるのは、猫の本能なのに。それを、「ひどい猫!」と飼い主に叱りつけられるなんて。だったら猫を外で放し飼いにしなきゃいいのに。自分勝手な飼い主だ。と私は完全に萎えてしまい、この章はほとんど走り読みした。
  いったいなぜ、クライマックスで唐突に人間が出てきたのか。それにはいくつかの理由があるだろう。もともと、この物語は人間たちが住宅地を建設するため、うさぎの繁殖地を破壊しようとする。そこで危機を察知したヘイズルたちが旅に出る、というのが発端だ。その憎むべき「敵」である人間が、クライマックスでヘイズルを助ける。これには、「人間は動物を迫害するだけでなく、助けることもできる」「動物と人間は共存できるはず」というメッセージがこめられているのかもしれない。
  また、ヘイズルはこれまで、ネズミや鳥など、他の動物たちの危機を助けてきた。そんなヘイズルだからこそ、猫に殺されそうになった場面 で人間に助けられたのだ。私たちは種族がちがっても、ともに助け合わなければいけないのだ。
  なので皆さん、野生動物が危ない目にあっていたら助けてあげましよう、そしてすぐに自然に返してあげましょう、という読者へのメッセージかもしれない。

 そうした、様々なメッセージがこめられているのは分っている。それでもあえて言いたい。人間にしゃしゃり出てほしくなかった。動物だけの世界で、最後まで貫きとおしてほしかった。ヘイズルには機転を利かして、自力で猫から脱出してほしかった。

 だがそんな風に願うこと自体、私が、「主人公はクライマックスのバトルで活躍するものだ」という固定観念に縛られているからだろう。この物語では、クライマックス、ラスボスの将軍と一騎打ちをしたのは「二番手キャラ」のビグ兄だった。
  常識をくつがえす展開だが、ここで、ビグ兄が「二番手」ということが生きてくる。主役ではないから、もしかしたら死ぬ かもしれないのだ。いやビグ兄のキャラからいって、死ぬ確立はかなり高い。 なので読者は手に汗握って、そのバトルを目で追う。ページをめくる手が震える。ビグ兄が瀕死の重症を負いながらも、自分たちの巣穴を守ろうと頑張れば頑張るほど、読者の不安は高まる。「死なないで!」と懸命に願う。中には、「いやむしろここで死んだら最高においしい。死んでくれ!」と秘かに願う読者もいるかもしれないが。とにかく、クライマックスの死闘は否応ない緊張感で盛り上がるのだ。作者、してやったりである。

 物語は最後、ヘイズルが地上を離れるシーンで締めくくられる。まるで彼の伝記のように。やはりこの物語の主役はヘイズルだったんだなあと再確認する終わり方だ。確かに彼は主役であり、理想的なリーダーだった。が、物語中の最高のヒーローはビグ兄。そんな読後感を持った。

※おまけ
  仲間たちの中でもっとも「賢い」とされるブラックベリの作戦を、とっさに理解できないヘイズル。ブラックベリにたずねる。 「おいおい、ちょっと待ってくれよ。ビグウィグも僕も単純なうさぎなんだ。説明してくれないか?」
  物語中、もっともウケたセリフがこれ。読んでるこっちこそ「おいおい」と言いたくなる。なぜそこでビグ兄を仲間につれこむんだヘイちゃん(笑)。

またの名を「スライリ」

 ビグ兄には別名がある。初めて登場する場面で、彼は読者に、うさぎ語名で「スライリ」、英語ではBigwig(毛皮頭、または大かつら)という名だと紹介される。頭のてっぺんの毛がぶあついことから、そう名付けられたらしい。
 以後、彼は会話文でも地の文でもほとんど「ビグウィグ」という英語名で呼ばれ、うさぎ語名の「スライリ」はほとんど登場しない。なので上巻の段階では、ビグ兄に別 名がある意義がよくわからなかった。
  だが下巻になると、この「スライリ」という別名ががぜん生きてくるのだ。先に述べたように、彼は単身エフラファに乗り込んで諜報活動を展開する。スパイになるのだ。その時、彼はスライリという名で行動する。別 に偽名を使っているわけではないのだが、それまで「ビグウィグ」の名に慣れ親しんでいた読者には、「スライリ」がまるでスパイのコードネームのように映り、緊張感を盛り上げるのだ。

※余談その一
  作者はビグ兄のエフラファ潜入シーンから、「書いているペンが止まらなくなった」そうだ。さもありなんと思わせるほど、エフラファ潜入から脱出、そして船に乗り込むまでの展開は筆がノッている。それはストーリー展開が緊迫しているから、というのもあるだろうが、主役がヘイズルから、より単純で行動的なビグ兄に交代したことも理由ではないだろうか。
  作者のペンが止まらなくなったシークエンスは、読む方も決して途中で本を置けない。かの松本清張も、「作者自身が面 白いと思いながら書かなければ、読む方も決して面白くない」と言っていたっけ。

※余談その二
  パンクロックバンド「Bigwig」は、ビグ兄からバンド名を取ったそうだ。彼らのアルバムジャケットには、頭に妙な毛を生やした、いかにもケンカっ早そうなうさぎが描かれている。  

泣かないうさぎ

この作品では、うさぎたちは必要以上に擬人化されていない。笑わないし、泣かないのだ。一度だけ、なかば人間に飼われているような暮らしをしているうさぎが「笑った」とき、ヘイズルたちはびっくりする。「笑う」という行為は本来、動物にはないものだから。
  また、動物たちは「泣く」こともない。物語のなかで、仲間が死んでしまった!(たいていは後で生きてると分かるんだけど)と感じたときも、驚きと悲しみで愕然となるけれど、涙の一粒もこぼさない。そのあたりがリアルでいい。
  排泄行為についてもそうだ。「トイレに行く」などと書かず、ダイレクトに「糞をする」と書いている。「擬人化なんかくそくらえ!」という作者の意気込みがつたわってくるようで気持ちがいい。
  だが同じ排泄行為でも、オシッコについての記述はなし。オスうさぎを飼った人なら知っていると思うが、オスうさぎには尿を飛ばしてなわばりを主張する「スプレー」という習性がある。飼いうさぎでもそうなのだから、野うさぎならもっと激しく尿を飛ばしまくりそうだが。いくら習性とはいえ、さすがにそれはちょっと小説には書けなかったということか。

娘たちが起こした「奇跡」

  下記のインタビューを読むと、最初、作者はビグ兄を将軍との戦いで死なせる予定だったらしい。だが娘たちが「死なせないで」と頼んだので、作者は予定を変更したとか。

BBCのリチャード・アダムズのインタビュー
http://www.bbc.co.uk/berkshire/content/articles/2007/03/16/richard_adams_interview_feature.shtml


  もともと、この物語は作者が自分の娘たちに語って聞かせた「お話」が元になっているそうだ。 私はその由来を聞いて「ほるほど」と思った。作者の他の作品もいくつか読んだが、WDは彼の最高傑作――もとい、奇跡のような作品だ。たとえばダニエル・キイスにとっての「アルジャーノンに花束を」のように、もう一度あんな話を書こうと思っても、二度と書けない作品だろう。(事実、24年後に出版されたWDの続編「Tales from Watership Down」では、一作目にあった魔法はすっかり消えうせ、蛇足としか言えない内容だった)
  WDにそんな「奇跡」が起こったのは、この作品が、娘たちとのなかば「共同製作」だからではないだろうか。娘たちを喜ばせ、飽きさせないようにと、息をつかせぬ ストーリーを考え出し、個性的で魅力あるキャラクターたちを創造する。そしてユーモア。作者の全作品中、WDほどユーモアにとんだ作品はない。それはやはり、娘たちへのサービス精神からではないか。娘たちを意識せずに書いたであろう他の作品は、作者のこだわりやメッセージが全面 に出ており、ちょっとばかし説教臭さが鼻につく。
  だが作者の全作品中もっとも、低年齢層まで読者対象においた(子どもまで楽しめる、の意味。子どもだけ楽しめる、ではない)であろうWDが、全作品中でもっとも大人たちを魅了しているというのも、皮肉といえば皮肉である。

アニメ映画「ウォーターシップダウンのうさぎたち」

 私とWDの「初遭遇」は映画だった。といっても映画を観て感動したわけではなく、公開当時のメインビジュアル、うさぎのシルエットを描いた絵に一目惚れしたのだ。夕焼けに染まった草原で、黒いうさぎが前歯だけ白く見せ、遠ぼえしている(ように見える)。その頃はうさぎについて無知だったから、「へー。うさぎも犬みたいに遠ぼえするんだ」と素直に思ったのだ。バカ。実はその絵は、罠にかかったスライリだと知ったのはごく最近のことだ。
 とにかくその絵に魅了された私は、高校の美術部のポスター製作かなんかで、その絵を真似て描いた思い出がある。肝心の映画は観なかった。その絵に惹かれた時には、すでに映画の公開は終わっていた。
 で、最近になってようやく観た。その前に原作の小説を読んでいたのもあって、すんなり映画にひきこまれた。舞台となるイギリスの田園風景の美しさと、クライマックスのうさぎ同士の血みどろバトルのギャップがすごい。だがこのギャップが効果 的なのだ。「絵のように美しいのどかな自然」としか人間は見ないけれど、その自然で生きる野生動物たちは生き残りをかけ、必死に戦っているのだ。ということが伝わってくる。
 キャラクターではかもめのキハールがよかった。翼を広げて大空に舞い上がるシーンは、映画ならではの爽快感だ。アートの歌声が流れる幻想的なシーンも、映画ならではの演出だろう。
 ストーリーは原作に忠実で、製作者たちの「原作の精神を反映させよう」という意気込みが伝わる。だが原作に忠実につくろうとしすぎて、原作のダイジェストのようになってしまっている感もある。なるべく多くのエピソードを詰め込もうとしすぎて、それぞれのエピソードが駆け足になってしまっているのだ。小説と映画は別 物なのだから、原作ファンにブーイングされようとも、もっとばっさりエピソードをカットして、必要なエピソードだけをつないで再構築した方が「映画的な盛り上がり・カタルシス」は得られたのではないか。将軍との最終バトルの後、いきなり数年後に飛んでジ・エンド。では、「瀕死で戦っていたビグウィグはどうなったの? 奇声を発してぶっ倒れたファイバーはどうなったの?」と気をもむ人もいるのでは。


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