カメラ・文/ひっつ


近藤勇の肖像写真と、直筆の襖。霊山歴史館にて。

 


新選組の屯所だった八木邸に入っていく女子学生たち。
とかく新選組は女にもてる。

 


生々しい刀傷と、「触れないで下さい」の張り紙

 


八木邸内で熱弁を奮うガイドのおじさん。
隣には、ファンが寄贈した近藤勇の彫刻が

 


隊士たちが住んでいた頃から変わっていないという、
八木邸の庭。

 


島原、角屋の外観。

 


こちらは角屋に残る刀傷。

 


表の窓枠にも、刀傷を発見!

 


やっぱりあった。「京都限定」 新選組キティちゃん…。

歴史上の人物の中で、 女性人気ダントツの謎

 今年のNHK大河ドラマは「新選組!」だという。そのものずばりの分かりやすいタイトルだが、語尾に「!」がついているところがいかにも新選組、という気がする。日本歴史上の有名人は数あれど、語尾に「!」がついても違和感がないのは新選組ぐらいではないだろうか。「紫式部!」や「徳川家康!」では違和感ありまくりだが、「新選組!」だとしっくりくる。それだけ、彼らには「若さ、青春、鮮烈」といった清々しいイメージが定着している。
 語尾に「!」がついても違和感が無いのは、他には、強いて言えば坂本龍馬ぐらいだろうか。だが龍馬と新選組には明確な違いがある。しょうもない事かもしれないが、新選組の方が圧倒的に女性ファンが多いのだ。いや別 に龍馬と比べなくとも、いわゆる歴史上の群像の中で、最も女性に人気があるのが新選組ではないだろうか。新選組に関する書籍の半数は女性が著者だったりするし、インターネットで新選組のサイトを開いているのは、圧倒的に女性ファンだったりする。
 私の周りにも、新選組が好きだという女性は多い。かくいう私の妹も新選組、特に土方歳三のファンで、京都はもちろん、はるばる函館まで土方の足跡を尋ねて行ったことがある。函館・五稜郭タワーの売店には、お察しの通 り土方グッズがたくさん売られており、中でも妹が購入した金色のテレホンカードが、「ゴールデン土方」という名前で売られていたと聞いた時には、そのネーミングセンスに妹とふたりで爆笑した。土方も、まさか後年、自分の写 真がそんな滑稽なネーミングで売られるとは露にも思わなかっただろうに。そう思うと気の毒だが、それだけ今なお衰えぬ 人気があるということ。
 いったい、新選組のどこがそんなに現代人、特に女性ファンを惹きつけるのか。一般 に新選組の魅力というと、「時代の波に逆行する生き方を貫き通 し、最後には滅んでいった悲劇」と、そこに漂う「滅びの美学」だと言われている。悲劇ゆえに、人の心を打つのだと。また「剣ひとつで乱世を生き抜こうとした、若者たちの純粋さ」も、女性ファンを惹きつける大きな魅力かも。そう、新選組の隊士たちってみんな若いのだ。局長の近藤勇にしたって、風貌だけ見ると年食ってるように見えるけれど、実は享年35歳という若さ。その配下の隊士たちは20代が大半を占める。もちろん「若い」イコール「女性ファンが多い」とは単純には結びつかないけれど、「若さゆえのひたむきさ」に女が弱いのは紛れもない事実。
 もちろん隊のシンボルである「誠」の文字や、ダンダラ羽織のカッコ良さも、時代を超えて人々を魅了している要因のひとつだろう。また肖像写 真の土方歳三が端正な美青年であることや、真偽はともかく、沖田総司が「薄幸の美剣士」と伝えられていることも、女性ファンが多い要因のひとつであるに違いない。
  だがその一方で、ごく少数ではあるが、新選組を嫌いな人もいる。1人の敵に大人数で襲いかかる「集団戦法」を徹底した新選組。あくまで実戦に徹した、効率のいい戦法だなと私なんかは納得してしまうのだけど、人によっては「卑怯だ」と映るらしい。そのように、人によって様々に解釈が分かれるのもまた、新選組の魅力かもしれない。

血に飢えたならず者か、 はたまた幕末のヒーローか
 
 今となっては意外に思うが、新選組は当初「維新の志士たちを次々に斬り殺し、京の町を恐怖のどん底に陥れたテロリスト集団」として、悪役のイメージが強かったという。そのイメージが大きく覆り、今日のように「幕末のヒーロー」として人気が沸騰したのは、司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」と、そのテレビ化がきっかけだとか。
 小説によって新選組のイメージが定着したということは、当然、虚構も多くなる。今なお新選組には謎が多く、研究が続けられ、従来の説が次々に「実は虚構ではないか」と暴かれていっているという。私自身、新選組に関する書籍を読んでいると「こりゃあ、いくらなんでも出来すぎ。美化しすぎだよ」と思う個所が多い。また本によって微妙に書いていることが違っており、いったいどれが本当なのか、こんがらがってしまうことも。
 果たして、新選組の実像とは何なのか。血に飢えたテロリストか、それとも幕末のヒーローか。折しも「京の冬の旅・新選組ゆかりの史跡めぐり」と題して、新選組の貴重な史跡や史料を観て回るツアーが開催されるという。史跡や史料は嘘をつかない。新選組の実像に触れるきっかけになればと思い、参加してみた。

 まだ12月上旬とはいえ京の底冷えは馬鹿にできないと思い、真冬のコートを着て出かけた私を嘲笑うかのように、当日の京都はぽかぽかと暖かい“観光日和"。バスに揺られて、まずは幕末、会津藩が本陣をかまえていた金戒光明寺、通 称「黒谷さん」を訪ねた。新選組はこの会津藩の預かりとして京都にとどまり、市中警護に当たったという。新選組がここで暮らしていた訳ではないので、彼らの“匂い"を直接感じ取れる史料はないが、彼らの直属の上司だった会津藩主・松平容保の遺墨を見ることができる。「遺墨」って、読んで字のごとく墨、いわゆる墨汁がびんに入って展示されてるのかと思っていたら、書のことだったんですね(恥)。松平容保の遺墨は大変貴重なものらしく、絶対に触れられないように、観光客が入れる部屋から廊下を隔てた奥の部屋の、そのまた奥に展示されていた。「幕府から授かった任務をただひたすら正直に遂行し、いかなる時も有徳の人(孝明天皇)に従う」という内容が力強い筆跡で書かれた書を見ていると、時代の激流に翻弄されながらも、最後まで幕臣としての任務をまっとうしようとする容保の強い意志が伺える。後に容保と会津藩が辿った悲運を知っているだけに、なおさらこの書が胸に染みる。そしてそれはまた、最後まで容保につき従った新選組も同じこと。

 光明寺を見学した後は、お楽しみのお昼ご飯。このツアーでは、円山公園の高台にある老舗料亭「左阿彌」で京料理がいただける。特に「南禅寺蒸し」が、とろけるような舌触りで、忘れられないおいしさだった。お椀いっぱいにご飯をよそってくれるのも嬉しい。
 お腹いっぱいになった後は、「運動してカロリーを消費しろ」ということなのだろうか。料亭を出てすぐに向ったのが、「維新の道」を上がった所にある「霊山歴史館」。この「維新の道」がけっこう急な坂道で、上りきる頃にはぜえぜえと肩で息をする始末。なぜこの坂道が「維新の道」と呼ばれているのか、その由来は知らないけれど、なるほど、こんなに苦しい犠牲を払ってようやく明治維新は達成されたのか、と思い知るには格好の坂道かも。
 霊山歴史館は日本で唯一の明治維新専門ミュージアムで、坂本龍馬や西郷隆盛の遺品を展示する常設展のほか、この冬は「大新選組展」と題して、新選組の貴重な史料を特別 展示している。「誠」の字が赤く染め抜かれた袖章や、近藤勇の鎖帷子など、どれも初めて見るものばかりで、見入ってしまう。中でも目をひいたのが、近藤勇の筆による書が墨書きされた襖。組の活動資金を借りに行った近藤が、金を貸してくれた商家への礼として店のふすまいっぱいに書をしたためているのだが、肝心の「近藤勇」という署名部分の紙が無惨にはがされてしまっている。幕府を守る組織として、薩長の志士たちを次々に斬り捨て、制圧していった新選組は、明治の世になってもなお、薩長の、つまり明治政府の要人たちの敵として忌み嫌われていたという。その新選組に「金を貸した」と知られるのを恐れた店の者が、事実無根にしてしまおうと、「近藤勇」の署名部分の紙をはがしたのだとか。今でこそ多くの人に愛され、アイドル扱いされていると言っても過言ではない新選組だが、かつて長い間「悪役」として嫌われていたという事実を、無惨にはがされた紙の跡が静かに訴えている気がした。やはり「史跡や史料は嘘をつかない」というのは本当だと思った。

新選組はならず者じゃない! ガイドのおじさん、大いに語る

 新選組の貴重な史料を見てイマジネーションを掻き立てられた後は、いよいよこのツアーのハイライトといってもいい、壬生の八木邸に向った。入口に「新選組屯所遺蹟」と刻まれた大きな石碑があるので分かりやすい。そう、見た目はごく普通 の旧家であるこの家を新選組は屯所とし、まさにここで暮らしていたのだ。そう思うと、なんてことない石畳や長屋門ですら、140年前にこの場で紡がれた物語の生き証人として、訪れる人に静かに何かを語りかけてくるような気がしてくる。
 邸内に一歩入って驚いたのは、その狭さと、天上の低さ。新選組の屯所というから、もっと広々とした大邸宅を想像していたのだが、実際はこじんまりとした普通 の屋敷だった。が、そのささやかさがかえって新選組を身近に感じる。天上や鴨居が低いのは家の中で殺傷沙汰が起こらないようにという配慮らしいが、奥の間の鴨居に、何かで鋭くえぐり取られた跡がある。すぐ横には、「刀傷には絶対に手を触れないでください」と書かれた張り紙。そう、ここで新選組結成時の筆頭局長、芹沢鴨が暗殺されたのだ。今もくっきりと残る傷跡は、まさにその時の刀によるもの。切りつけたのは土方か、それとも沖田か。鴨居の下には「芹沢鴨がけつまづいた」といわれる台までご丁寧に置かれており、「ここで、芹沢が…」と、観る者の想像力を掻き立てずにはいられない。
 それにしても驚いたのは、鴨居に残る刀傷が、ガラスケースに入れられたりせずに、むきだしのまま展示されていることだ。いや、そもそも「展示」なんてされていない。当時の姿のまま、鴨居として普通 に家の中にあるのだから。だから張り紙がなければ、きっとそのまま見過ごしてしまう。 さっき訪れた霊山歴史館では、新選組の史料は厳重にガラスケースに入れられて展示されていた。だがこの家では、新選組が暮らしていた当時の姿のままを私たちに見せてくれる。ガラスケースなんてどこにもない。鴨居の刀傷だって、両脇に「触れないでください」と書かれた張り紙がぺろんと張られているだけ。係の者の目を盗んで、こっそり触ろうと思えばいくらでも触れる。さっきも書いたように、邸内は低く作られているから、鴨居の位 置も低く、女の私でも手を伸ばせばすぐに届く。だが驚くべきことに、たくさんの手で撫で回された形跡は見当たらなかった。刀傷の角が丸くなっていず、削られたままの生々しい姿を残しているのが、その証拠だ。この家が一般 公開されたのは六年前からだというが、張り紙の「触れないでください」という注意書きを、ここを訪れる人達は頑なに守り続けているということか。もちろん私もそれを守った。この貴重な刀傷が、今の姿のまま、これから先も生き続けられるように。
 それにしてもこの家の代々の住人たちも、よくもこの刀傷を修理したりせずに、このまま保存してくれていたものだなあと感心する。自分たちの生活の場に、このような「暗殺事件の傷跡」が残っているのは、あまり良い気はしなかったろうに。まるで後年、新選組が見直されて、こうして貴重な史跡になることを予見していたかのようだ。きっと八木家の人たちは、明治の世になって新選組が「朝敵」「賊軍」と言われ、不当な汚名を着せられようとも、「確かに彼らも歴史を作った」ということを、知っていたのかもしれない。
「新選組はならず者みたいに言われてますけどね、本当は違うんです。徳川幕府を守るために、正当な警察行為をしただけなんです。それが明治になって、幕府を倒した薩長の志士たちが政権についてから、まるで恐ろしい殺戮集団みたいに言われてきた。近藤勇だって酷いこと言われてますけどね、本当は違うんです。この家におった時は書道の勉強をしたり、書物を読んだりして過ごしていた。思慮深い、穏やかな人だったと聞いてます」
と、私たちツアー客を畳に座らせて、ガイドのおじさんが力説している。 新選組に着せられた汚名を晴らそうと、唾を飛ばさんばかりに懸命に喋っているその姿を見て、
「おじさん、そんなに必死にならなくても大丈夫だよ。みんなもうちゃんと、新選組が単なるテロリストじゃないって事は分かってるし、それどころか最近ますます大人気で、幕末のヒーロー扱いだよ」と声をかけてあげたくなった。
 と同時に、もしかしたら京都の人たちは今でも、「悪役のイメージが強い新選組の、真実の姿を分かっているのは自分たちだけだ」と思っているのかもしれない――と感じた。御所に火をつけ、その混乱に乗じて天皇を長州に連れ去るという過激派志士たちの計画を未然に防いだ新選組。それがかの有名な「池田屋騒動」だが、「京の町を火の海から防いだ」新選組への感謝の念は、今も京都人の心に脈々と受け継がれているのだろうか。このツアーで色々な史跡・史料を見てきたが、このガイドのおじさんの力説が最も心に残ったのは、そんな京都人の気持ちを垣間見たからかもしれない。

 邸の門の前には、八木家の現在のご主人が営む和菓子屋があり、ここで名物の屯所餅をいただく。もちろん、店内ではちゃっかり新選組グッズも売られているので、おみやげを買うのに困らない。
 屯所餅を食べながらひとやすみしていると、14〜17位だと思われる制服姿の女子学生四人が、賑やかに喋りながら八木邸へと入ってきた。隊士たちも腰かけたという「隊士腰掛の石」を見て「ほら、ホントにここにある!」と、弾んだ声で指差した。彼女たちもきっと、新選組のファンなのだろう。制服姿ということは、修学旅行の一グループだろうか。「やっぱり、新選組は若い女の子に人気があるな〜」と、隣のおじさんが羨ましそうにつぶやいた。

 八木邸を出て、このツアーの最後の訪問地、島原の角屋を尋ねる。新選組の宴の場として知られる、現存する唯一の揚屋で、外観からは想像もつかない広々とした内部に驚く。 ここでもまた、柱に「新選組の刀傷」が残っているが、「触れないでください」という注意書きが無いせいか、触られまくって角がすっかり丸くなっていた。表の窓枠にも、刀傷を発見。こちらは目立たないせいか、まだ切り口が尖っており、生々しい。注意深く見て回れば、他にももっと発見できたかも。しかしツアーの悲しさで、慌ただしくバスに戻ることになった。今度訪れた時には、もっとじっくり見学したいと思う。
 そうそう、今回のツアーでは訪れなかった壬生寺や、前川邸も訪れたい。今までおぼろげだった新選組の輪郭が、この目で史跡を見て回ることで、よりくっきりと浮かび上がってきたような気がするもの。新選組が生きた時代の名残りと、あの時代への憧憬が、今も京都の人の心に残っていることも。

 ちなみに新選組の「せん」は、しんにょうの「選」が正しいらしい。よく混同される手偏の「撰」の「新撰組」は当て字で、間違いとか。「選」が正しい決定的な根拠は、近藤勇の封書に「新選組」の認印が捺印されているから、らしい。

※2003年12月3日に行われた「京の冬の旅・新選組ゆかりの史跡めぐり」マスコミ試乗会に参加した時のレポートを元に、フリーペーパー御堂筋1月号に掲載されたものを再構成してUPしました。

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