“CIAO CAPITANO”と手書きされたハチマキを帽子に巻いたマダム。ホテル前で選手を出待ちする人たちの中でも目立っていた。

それぞれが思い出のバラックユニを着てスタジアムに集った。中でも目立ったのが、左の男性が着ている2010年W杯仕様の代表ユニだ。

2010年W杯ユニの黒バージョン。バラック最後の代表ユニであり、W杯本番に着ることがかなわなかったこのユニを着ている人が多かった。

当日、スタンドで売られていた引退試合記念シャツと、それを着たおじさん。


 その不安は、ある意味では的中し、だがある意味では杞憂に終わった。というのも当日、確かに応援をリードするサポーター集団はおらず、だから拍手や歓声は頻繁に起こっても、一つのまとまった応援コールは、試合中はほとんど聞こえてこなかった。
 また、自作の横断幕やゲートフラッグをかかげるファンはたくさんいたが、それらはあくまで個々で、シュナイダーがレヴァークーゼンで引退試合をした時に出たような、スタンドを被い尽くすビッグフラッグは出なかった。そういう大がかりなグッズを用意する集団がいなかったからだ。試合前、みんなで頭上にかかげて「DANKE MICHA」の人文字をつくった厚紙も、試合の主催者が用意して入口で入場者に配ったものであり、サポーターではなかった。

 ならスタジアムの雰囲気は今ひとつだったのかというと、そんなことは全くなかった。ビッグフラッグなどの「わかりやすい」団結アイテムは登場しなかったが、それでもスタジアム全体になんともいえない一体感があった。「そりゃバラックファンばかりなんだから当然」と思われるかもしれないが、実はそれほどバラックファンばかりという訳でもなさそうだった(他の選手ユニを着た人もけっこういた)。それよりもっと大きな単位 ーー「バラックファン」という枠を超えた一体感が、あの夜、あったように思うのだ。

 スタジアムに向かう途中、周辺の道路は同じくスタジアムに向かう人でいっぱいだったが、彼らを見て気づいたことがある。ユニフォームを着た人よりも、私服を着た人の方が多いこと。2年前に観戦したブンデスリーガでは、私服よりもユニを着た人の方が多かったが、この試合では逆だった。また、ユニの種類も見事にバラバラだった。もっとも多かったのが代表ユニで、ユニを着た人の半分近く。残り半分をチェルシーユニ、バイエルンユニ、レヴァークーゼンユニ、ケムニッツァーユニで分け合っていた。複数のクラブを渡り歩き、それぞれのクラブで強いインパクトを残したバラックの引退試合にふさわしいラインナップといえる。また先述したように、バラック以外の選手ユニを着た人もわりといた。
 だがそんな風に服装やユニの種類はバラバラでも、彼らには一つの共通点があった。スタジアムに一体感があったのも、まさにこの共通 点を持った人たちが集っていたからだった。
 それは「時代」である。

 当日、観客にティーンエイジャーはほとんど見かけず、若くても25才くらい。もっとも多かったのは30〜50代だろうか。彼らが連れて来た子どもの姿もちらほら見かけた。
 観客の年齢層が高めなことは、彼らが、バラックが活躍した時代をともに生き、共有してきたことの証だった。いわば彼らは「バラックの時代」の証人なのだ。応援するクラブや選手はバラバラでも、また普段はあまりスタジアムに行かない人であっても、みな、同じ時代を生きてきたのだ。
 彼らはドイツがW杯出場すら危うかった頃を知っている。ウクライナとのW杯出場をかけたプレーオフ、バラックが救世主となった試合も目撃している。あのプレーオフで対戦し、バラックと明暗を分けたシェフチェンコも、今夜の試合に出場していた。今ではバラックの大親友として。

 「バラックは鉛の時代の唯一の光だった」と、WELT誌の記者は書いた。その言葉に全面 的に同意する訳ではないが、それでも冒頭に引用したのは、「時代」というキーワードがあったからだ。その時代が、記者が言うように鉛だったかどうかはともかくとして、確かに一つの「時代」があった。そしてあの夜、スタジアムに集った人達は、その「時代」を懐かしみ、振り返る思いで全国からやってきたのではないだろうか。あの夜、ピッチにはバラックだけでなく、彼とともに時代を作った選手たちが一同に会していた。そして間違いなくバラックは、あの時代の象徴だった。バラックの引退試合を見ることは、一つの時代の終焉を見届けることでもあったのだ。

⇒続く

キックオフ前、ピッチに整列したスター選手たちに観客は総立ちで拍手を送った。手前でインタビューを受けているのはカルムント氏(右)。