The Sounds Of Silence
【サウンド・オブ・サイレンス】1966年


1. The Sounds Of Silence
  サウンド・オブ・サイレンス
2. Leaves That Are Green
  木の葉は緑
3. Blessed
  ブレスト
4. Kathy's Song
  キャシーの歌
5. Somewhere They Can't Find Me
  どこにもいないよ
6. Anji
  アンジー
7. Richard Cory
  リチャード・コリー
8. A Most Peculiar Man
  とても変わった人
9. April Come She Will
  4月になれば彼女は
10. We've Got The Groovey Thing Goin'
  はりきってゆこう
11. I Am a Rock
  アイ・アム・ア・ロック




S&Gって、色に例えると圧倒的に「グリーン」ってイメージがある。それもまだ芽生えたばかりの、若々しい明るい緑。ライトグリーンとでもいえばいいのか。そういえば81年の再結成時に発売されたベスト盤のタイトルも「若き緑の日々」だった。という事は「S&G=グリーン」のイメージを抱いているのは、私だけではないという事か。やっぱりあの二人の若者特有のみずみずしいハーモニーが、爽やかな若葉のイメージを連想させるからだろうな‥‥と今まで思っていたけれど、この『サウンド・オブ・サイレンス 』のジャケットを改めて見て、それだけではないと気付いた。そう、このジャケットの印象が強くて、「S&G=グリーン」というイメージにつながったのではないか。それぐらい、このジャケットはS&Gのアルバムの中でもトップクラスに入る出来だと思う。‥‥といっても、アルバム全部で5枚しかないけど(笑)。
でもその5枚の中でも、このジャケットは人気が高い。まあインパクトから言えば『ブックエンド』には劣るけど。でも好きなジャケットではある。個人的にツボなのが、巧みな遠近法を使って、ポールとアーティがほぼ同じ身長のように見せかけているところ(笑)。いや実際はどうか分からないけれど、私にはそう思える。

のっけからジャケットの話ばかりして、いったいなんだと思われたかもしれない。だがこれには一応理由があって、ジャケットだけでなく、このアルバム全体のイメージも“みずみずしいグリーン”そのものなのだ。その名もズバリ「木の葉は緑」という歌もあるし、どの曲も二人の若者らしいピュアな感性が、まるで雨上がりの木の葉に光る滴の様に、きらきらと輝いている。
このアルバムが作られた経緯については、今さら説明する間でもないだろう。デビュー作『水曜の朝、午前3時』の商業的失敗でいったん解散したS&Gだが、彼らの知らないうちに勝手にフォーク・ロックバージョンにアレンジされた「サウンド・オブ・サイレンス 」が大ヒット、そしてそのチャンスを逃すまいと急遽S&Gを再結成させ、大急ぎで作られたのがこのアルバムである。
そんな風に慌ただしく作られたアルバムらしく、収録曲の半分は前年の『ポール・サイモン・ソングブック』の焼き直しで、曲そのものにあんまり新鮮味はない。だがそれを補って余りある、二人のハーモニーのみずみずしさ。「サウンド・オブ・サイレンス 」がヒットしたとはいえ、まだまだ二人ともスターにはなりきれてなくて、ジャケット写 真の顔にもまだどことなく「野暮ったさ」が残っている。歌声もそれと同様に、“まだスレてない初々しさ”みたいなものがあって、それが思春期のナイーブな心情を綴ったポールの歌にぴったりハマっている。ことハーモニーだけ取りあげるなら、このアルバムと、次の『パセリ、セージ、ローズマリー・アンド・タイム』あたりが最高に輝いていた時期じゃないだろうか。そして二人の友情も、この時期が最も強かったのでは…と思えるほど、二人の息もピッタリだ。S&Gといえば「息ピッタリのハーモニー」が代名詞だから、言い替えればこの二枚のアルバムは、「最もS&Gらしいアルバム」と言えるのかもしれない。

また収録曲の半分が『ソングブック』からの流用といっても、ただ歌い手がソロからデュオに変わったというだけでなく、曲そのものにも多彩 なアレンジが施されている。簡単に言えば、ポール一人の弾き語りバージョンから、スタジオミュージシャン達によるフォーク・ロック・バージョンへの華麗なる変身。
だからといってこのアルバムを、単に「『ソングブック』の焼き直しフォーク・ロック盤」、と言い切る事はもちろんできない。このアルバム用に作られたポールの新曲も4曲、収録されている。またポールのオリジナル曲ではないにしろ、ギターファンにとっては他のどんな名曲よりも価値のあるギター・インスト「アンジー」も入っている。
だがそんな多彩な曲に混じって、一番目を引くのはやはりタイトル・チューンである「サウンド・オブ・サイレンス 」だろう。ポールがこの曲をアルバムに収録するのは実にこれで三回目で、それも1964年と65年の2年間で、三通 りのバージョンが世に出た事になる。こういう例って、音楽業界でも他に例がないんじゃないだろうか。よっぽどこの曲に自信があったんだなぁ。まあ三回目のリリースに関しては、ポールが知らないうちに勝手にフォーク・ロックバージョンにアレンジされて、それが大ヒットした後にポールは初めてこの曲の新バージョンを知ったのだから、ポールの責任ではないのだけれど。しかし三度目のリリースで大ヒットなんて、まさに「三度目の正直」って感じで、「人生、簡単に諦めちゃいけない」と実感させられる良い見本である。
だって「サウンド・オブ・サイレンス 」なんて、最初のリリースである『水曜の朝、午前3時』のアコギバージョンを聞いただけで、もう紛れもない「名曲」だと分かるのに、それがちっとも評判にならず、忘れ去られようとしていたのだから。やっぱりどんな名曲も、必ずヒットするとは限らない。ホントに「運」って重要だよなーと、つくづく実感できるエピソードである。

そう、このアルバムを聴いていて1番印象的なのは、その「運」の大切さ。いや「運命」と言い替えてもいい。「サウンド・オブ・サイレンス 」がポールたちの知らない間に勝手にアレンジされてシングル・リリースされたのも、元々はボストンの名も無きDJが、自分の番組でこの曲を繰り返しかけているうちに、大学生を中心とした地元リスナーの間で人気が出て、それがNYにまで伝わったから。それだけでも十分「運命の不思議さ」を感じるけれど、もっと凄いのは、そのDJが「サウンド・オブ・サイレンス 」を繰り返しかけた理由である。別にレコード会社から圧力がかかったからでもなく、またその歌にぴったりの事件(どんなだ)が起こって一躍「タイムリーな歌」になったからでもない。ただ単に「好きだから」なのだという。そんなごく個人的な思いだけで、一年近く前の、ロクに売れなかったアルバムからこの曲を拾い上げ、繰り返し電波にのせてリスナーへと届けたのだ。「どんな素晴らしい名曲でも、誰にも聴いてもらわなきゃゴミ同然」と言うけれど、誰も頼みもしないのに、自らすすんでこの曲をかけ続けてくれたこの無名のDJに、私達ファンはいくら感謝してもしきれない。
――と同時に、本当に運命なんて分からない、まさに“GOD ONLY KNOWS”、「神のみぞ知る」ってこの事だよなぁと実感する。そのDJが「サウンド・オブ・サイレンス 」を好きになったのも偶然だし、彼のラジオの放送エリアが、たまたまハーバードやボストンなど多くの大学が密集している地域だったという事も、偶然でしかない。まさに偶然に偶然が重なって起きた奇跡で、そんなほとんど伝説化されたエピソードが、「サウンド・オブ・サイレンス 」をよりいっそう「特別な歌」にしていると思う。ただ単に「S&Gの出世曲」というだけでは済まされない、何か神がかり的なオーラを放っている曲、という感じ。
もちろんそんな奇跡が起きたのも、「サウンド・オブ・サイレンス 」という曲に多くの人の心を惹き付ける魅力があったからこそ、なんだけど。でもほんと、運命って分からない。

無名のDJとそれにまつわる伝説は、S&Gにとって最大の「運命の転機」ともいえるエピソードだけど、ことポール一人に的を絞れば、彼に取っての「運命の転機」はやはり、アーティとの出会いだろうか。いやいったん解散した後の出会いだから、「再会」と言い替えるべきか。「アーティ安心毛布説」の方にも書いたけれど、もし「サウンド・オブ・サイレンス」のヒットがなく、ポールがソロとして活動を続けていたら、いったいどんなアーティストになっていただろうとふと思う事がある。きっと渋〜い、通 好みのシンガーソングライターになっていたんじゃないだろうか。例えるならルー・リードのような。彼とポールはなんとなく似ているし。事実、仲の良い友人だとポール自身が言ってたし。きっと波長が合うんだろうな。
が、ルー・リードなんて言ってもそのテのファン以外は知らない人がほとんどで、私にしたって「ポールの友達」だから知っているだけである。ポールもたぶん、アーティと出会っていなかったら、そんな「知る人ぞ知る」マニアックなアーティストになっていた可能性は十分にある。確かにいい曲を作るんだけど、でも決して大衆的とは言えない曲ばかりだから、一部の音楽通 には認められても、一般大衆にはソッポを向かれていたような。
だがアーティと出会った事で、決して大衆的とは言えないポールの歌の数々は生まれ変わった。厳しい孤独を歌った辛辣な歌の数々は、ハーモニーというオブラートに包まれて、誰の耳にも心地よいポップソングとして再生したのだ。
もっと端的に言えば、より大衆的になった。大衆的とかポップとかいう言葉を聞くと、すぐ「商業主義」だとか「金儲けのためにレベルを落とした」だとか、酷い時には「魂を売った」とまで言われる事があるけれど、でも前述したように「どんな素晴らしい名曲でも、誰にも聴いてもらわなきゃゴミ同然」なのだから、そこまで言われる筋合いはないと思う。それに大衆の存在を全く無視した歌なんて、アーティストの独りよがりな自己満足を押し付けられるだけで、鬱陶しい事この上ない。かといって大衆に媚びまくった、オリジナリティの全くない歌もつまらない。要はバランスの問題で、S&Gの歌はこのバランスが絶妙なのだ。程よく知的で芸術的で、そして程よく大衆的で。そんな絶妙のバランスを与えてくれたのがアーティで、彼がいたからあそこまで大きな成功を収められたのだと、ポール自身も言っている。
ちょっとキレイにまとめるならば、一見とっつきにくいポールの歌に、「大衆的」というスパイスをさりげなく振りかけて、とっつきやすくしてくれたのがアーティだと思う。そう、あくまでもさりげなく。あからさまに大衆的じゃないところが、また絶妙の魅力なのだ。
『ソング・ブック』に収録されている「サウンド・オブ・サイレンス 」と、このアルバムに収録されている同曲を聞き比べると、特にその事がよく分かる。ポールがソロで弾き語る「サウンド・オブ・サイレンス 」も、大ヒットしたS&Gバージョンに決して劣らない、完成された素晴らしい出来だと思うけど、でもやっぱり万人に耳触りが良いのはS&Gバージョンの方だ。それも特にこのアルバムのバージョンの方。ただアーティの声が加わっただけでなく、プロデューサー、トム・ウィルソンのヒラメキで当時流行りのフォーク・ロックにアレンジされ、ギターだけの原曲とは似ても似つかぬ曲になっている。
ポール自身は、自分の曲がそんな風に、耳触りの良いポップ・ソングに勝手にアレンジされた事を最初は快く思わなかっただろうけれど。だが97年のインタビューで、インタビュアーがその事についての本音を聞きだそうとした際、それをさえぎるように「言いかい!僕はとやかく言える立場じゃないんだ。あれはトム・ウィルソンの伝説なんだから」とやや強い口調で言い切っている。また同じインタビューで、「サウンド・オブ・サイレンスのヒットがなかったら、S&Gを続けていなかったのでは?」という問いには「そう思う」と答え、すぐ後の「結果 的に続けた事に後悔はありますか?」との問いには、「全くないよ。S&Gに悔いはない。彼(アーティ)は僕の親友だったし…」ときっぱり答えている。それを読んで、なんだかホッとしたのを覚えている。ポールは自分の曲を「大衆的」にしてくれたアーティと、彼とデュオを組んでいた過去に対してちっとも後悔なんかしていないのだ。

それにしても2年間で三回も違うバージョンをリリースして、そしてそれが三回目でようやくヒットするなんて、「サウンド・オブ・サイレンス 」はまさにポールにとって渾身の一曲というか、単に「出世作」という一言では片付けられない重みがある。まさにポールの人生を決定付けた、運命の曲。だからだろう、ポールが今でもコンサートでこの曲を歌う時、他のどの曲よりも心をこめて、大切に歌っているように思える。そしてそんなポールの心情を観衆も理解して、惜しみない拍手をこの曲に捧げている‥‥ように思える。 また多くの観衆にとっても、「サウンド・オブ・サイレンス 」、特にこのアルバムに収録されているフォーク・ロックバージョンの「サウンド・オブ・サイレンス 」は、S&G、すなわちポール・サイモンの音楽と初めて出会った記念すべき曲でもある。だからいっそう思い入れが深く、この曲のイントロが流れただけで、もうたちまち青春時代が蘇るのだ。
何を隠そう、私だってそうだ。厳密に言うと初めてポールを知ったのは「ボクサー」の歌詞からだけど、初めて聞いた曲は「サウンド・オブ・サイレンス 」だったと思う。(以下、長々と私の回想シーンが続くので、興味ない方は飛ばしてください)
同じような年代の人なら誰でも経験あると思うけど、思春期になって洋楽というものに興味を持ち始めた頃、最初に耳に入ってきたのはやっぱりビートルズだった。私の場合、中学の英語教師がビートルズのファンで、授業中にビートルズの曲をじゃんじゃんかけて、無防備な生徒達を洗脳しようとしたのがきっかけである(笑)。またボブ・ディランも好きだったらしく、「風に吹かれて」なんかもかけて、歌詞カードまで配っていた。それらの曲で英語の勉強をさせられた私は、まんまとその教師の策略にはまり、60年代の洋楽に興味を持って、図書館でそれに関する本を探してみた。そうして見つかった本の中にはS&Gも紹介されていて、代表曲として「サウンド・オブ・サイレンス 」の歌詞が載っていた。それが、私とS&Gとの初めての出会いである‥‥とはっきり言い切るには幾分記憶があやふやだけど。でも確かな事は、私はその歌詞に心を惹かれて、実際に曲を聞いてみたいと思った事だ。といってもレコードを買おうなんて気はさらさらなくて、もっぱらラジオでその曲がかかるのを期待していた、なんとも受け身な姿勢だけれど。
そうして運よくラジオからテープに録音する事ができたのが、このアルバムの「サウンド・オブ・サイレンス 」だった。本当に、何度も何度も繰り返し聞いた。安物のラジカセのスピーカーに、耳をくっつけるようにして。幸い、その英語教師を除いて周囲に熱心なビートルズファンはいなかったので、ビートルズとS&Gを比較してああだこうだと不毛な議論をする事もなく、ビートルズの曲もテープに録って普通 に聞いていた。なので特にS&Gのファン、という訳ではなかったと思う。81年〜83年の再結成ブームはまだ先の話だったし、そんなに彼らの音楽にはまっていた訳ではない。なんといっても、テープに録った「サウンド・オブ・サイレンス 」1曲だけで満足してしまって、もっと他の曲も聞こうとアルバムを買う気なんかちっとも起こらなかったし(笑)。いわば「洋楽初心者として、最初に聞いておきたい定番曲」のひとつとして、「サウンド・オブ・サイレンス 」を聞いていたに過ぎない。
それでも他の洋楽とは一線を画した、厳しい孤独を歌った独特の歌詞は強く心に残っている。本格的にファンになってアルバムを集めるようになったのはそれから数年後だけれど、それでも最初に聞いた曲として、「サウンド・オブ・サイレンス 」には今でも思い入れが強い。
まあ今の私の好みから言えば、このアルバムの「サウンド・オブ・サイレンス 」より、『ソングブック』や『水曜の朝、午前3時』に入っているアコギ・バージョンの「サウンド・オブ・サイレンス 」の方が好きだけど。でもそんな好みとは関係なく、最初に聞いたのはこのアルバムのフォーク・ロックバージョンだから、やっぱり忘れられない思い出の曲である。(回想シーン終わり)

【ついリピートしてしまう曲】
上でさんざん「サウンド・オブ・サイレンス 」について語っておきながら、実はリピート曲は「サウンド・オブ・サイレンス 」じゃなかったりする(笑)。まあ昔さんざん聞いたので、「もう飽きた」って訳でもないんだけど。
でも理由なんかないけれど、なんとなくもう一度聞きたくなる 曲といえば、「木の葉は緑」と「とても変わった人 」だろうか。……あれ、二曲とも『ソングブック』の焼き直しバージョンじゃん。でも『ソングブック』を持ってない私は、この二曲はこのアルバムのバージョンしか知らないので、「焼き直し」とか関係ない。どちらもベスト盤などに収められた事のない、S&Gの中ではマイナーな曲だけど、ギターメインの伴奏といい、ポールが主旋律を歌うハーモニー構成といい、「S&Gっぽさ」がぷんぷん匂う曲だと思う。で、どちらもメロディーが心地よくて、一度聞いたらクセになって、つい何度も繰り返し聞いてしまう曲。

【ついスキップしてしまう曲】
言いにくいけれど、「ブレスト」かなぁ。歌詞があんまり好きになれない。聖書の中でも特に有名な聖句を引用して、それと現実を対比させ、神に向かって毒づく歌詞は、ポールにしては安易だなあと思ってしまう。こうした、聖書の権威に疑問を投げかけ、刃向かう事で、自分の個性を引き立たせようとする手法は昔も今もありがちで、日本人ミュージシャンの歌詞にも時々見かける。
思春期特有の虚無感や喪失感を表現するには、「神様なんかいない」と歌うのがきっとぴったりハマるのだろう。いわば傷付きやすいナイーブな心を歌う時の、常套手段。だからこそポールがこういうありがちな歌を書いていたという事に、当時の彼の「若さ」を感じてしまう‥‥なんて、なんかとんでもなくエラそうだな私(^^;)。
まあ一言でいえば、この頃のポールらしい「ちょっと青臭い歌」なんだけれど。でも同じ青臭い歌でも、アイ・アム・ア・ロックの方が好感が持てる。それはきっと、他に責任を転化してないからだろう。

あと、このアルバムについてるライナーノートに、間違い発見。この歌についての解説で、「この旧約聖書マタイ伝5章5節からの引用句によって歌い出される〜」とあるけれど、マタイ伝は旧約聖書じゃなくて、新約聖書です。まあこんな間違いを見つけたところで気にする人なんていないだろうけど、一応、指摘しておきました。

【ジャケットデザイン】
最初の方でも書いたけど、巧みな遠近法を駆使して、ポールとアーティの背丈がほとんど変わらないように見せかけている、マジカルなジャケット(笑)。だから一見、「おや?」と目を疑う。bbあれ?ポールってこんなに背が高かったっけ?…なんか、ポールらしくないなぁ。
まあ別に上記のような意図がジャケット作成者にあった訳ではなく、偶然、二人の身長差がほとんどないように撮れてしまっただけかもしれないけど。でもこのジャケットを見て気づかされる事は、やっぱりS&Gは遠目でもはっきり分かる身長差があった方が、S&Gらしくて良い、という事だ。
…なーんて、アーティより背が低い事を気にしていたと言われるポールには気の毒だけど。でもやっぱり頭一個分くらいの身長差があってこそのS&Gで、二人の身長差がほとんどないS&Gなんて、なんだかとても違和感がある。S&Gに限らず、コンビというのはある程度身長差があった方が、見た目にも区別 がつきやすくてていいと思うんですけどねぇ。凸凹コンビという名称もあるし。そういう意味ではS&Gって、髪の色も目の色も違う、顔立ちも全然似てない、極め付けに背丈が全然違うから、遠目から見てもハッキリと区別 できる理想的なコンビだったんだなあと再確認。

それにしてもこのジャケットのアーティはカッコいいね。まあこのジャケットに限らず、若い頃のアーティってほんとカッコよくって、ただ座ってるだけでもサマになってて、「さすが映画スター!」って感じで惚れ惚れする。
逆にポールは、若い頃よりも中年以降の方が、ずっとカッコいい…と思う。このジャケットでもそうだけど、アーティに比べるとまだあかぬ けてないというか、田舎臭い兄ちゃんって感じ。まあ同じS&G時代でも、『ブックエンド』の頃からはなんとなく“スターの風格”みたいなものが身について、顔立ちも変わっていくけれど。でもこの頃はまだあかぬ けてない。服装もダサいし。このジャケット写真では、よく見るとかなり厚底のブーツ履いてるようにも思えるし。<ボ、ボロクソや…。

あと、このジャケットのイラストを描いてる時に初めて気付いたのが、二人のマフラーがお揃いだということ。きっと撮影用に、スタイリストが用意した衣装のひとつなんだろう。そう願いたい。
…いや別に、あのマフラーが二人の私物でもいいんだけどさ。でもティーンの頃ならともかく、25才の男同士が、自分たちの趣味でお揃いのマフラーして、しかもその格好でジャケットに載るなんて、ちょっと気持ち悪くないですかぁ?(^^ゞ
「それだけ仲が良かったのね」と、微笑ましく思うファンも中にはいるかもしれないけどさ。きっとスタイリストもそれを狙って、二人にお揃いのマフラーをさせたんだろうけど。「このデュオは、こんなに仲がいいんですよ〜」という事を宣伝する、レコード会社の戦略のひとつなのだろう。(んな大げさな…)
でも私はその手には乗らないぞ。あの白と黒のツートンカラーのマフラーは、絶対に、スタイリストが用意した衣装なんだ。そうに決まってる。(なーにをムキになってるんだか)
あ、でももしあのマフラーが店で売られていたら、きっと買ってしまうだろうな。黒地に白の縦ラインが、なんとなくスカンクを思わせてかわいいし。そんでそれを首に巻いて、「わーい、ポールやアーティとお揃いだ」と、アホまるだしではしゃぐのだ(笑)。はしゃぐといっても、もちろん心の中で、だけどね。